ARIA The NextGeneration 第二節
美しい水飛沫を従えて、青いオールが静かに舞う。旋回のため大きく回したオールを再びファルコラに戻すと、一つ大きく波を蹴る。
ゴンドラが傾斜する。乗客が乗っていたならば驚いて悲鳴の一つも上げるような揺れだが、金属の半円ボールに乗った火星(アクア)猫は少しも気にした様子もない。しかもこれだけ揺れているというのに、ボール自体は船底を殆ど移動していない。
彼女のゴンドラ操船は確かに横揺れ(ローリング)が激しい。縦揺れ(ピッチング)もそれなりにある。しかしその大きな揺れはまるで、動物の背に跨った時のような生き物自体の躍動感を感じさせるものだった。馬の背に乗る時は、馬の上下動に合わせて自然と身体を動かせるようにならなければならない。彼女の操船は、そんな試練を越えてでも乗ってみたくなるような乗馬に近い魅力がある。
広い海をどこまでも見通す透き通った瞳はとても精悍で、優雅に舞うオールはまるで悪を討ち破るランスのよう。
日の照り返しで輝く海を切り裂き力強く進んで行くその姿は、まさに愛馬と共に翔ける人馬一体の騎士そのものだった。
「ふ〜、やっぱり大きな海で漕ぐのは気持ち良いね〜、アリア社長〜」
そんな勁悍(けいかん)と称しても充分すぎるほどの姿を見せたアイが、もの凄くギャップのあるのんびりした声を出した。お供のアリア社長も「ぷ〜いにゅ〜」と、のんびり答える。
水先案内人(ウンディーネ)には、三つのスキルというものが求められる。接客、舟謳(カンツォーネ)、操船術。
そして水先案内人(ウンディーネ)の最初の出発点である両手袋(ペア)採用試験ではその中でも操船スキルが試される。乗客の水上での安全を預かる仕事であるのだから、その部分をクリアできないことには見習いにすらならせてもらえない。
そんな理由もあり、とにかくその最初の採用試験に合格しない事には何にも始まらないと考えたアイは、水先案内人(ウンディーネ)になると決めた時からバーチャルシミュレーターでゴンドラの動かし方ばかり練習していた。その甲斐あってか水先案内人(ウンディーネ)採用試験直前には並外れたオール捌きを魅せるまでになり、見事両手袋(ペア)の資格をもらってARIAカンパニーに入ることができたのだが
『アイちゃんのゴンドラって乗ってると楽しいけど……観光にはちょっと不向きかな』
練習指導員としてアイのゴンドラに灯里が始めて乗船した時、そんな評価を彼女はもらっていた。
そう、アイの操るゴンドラは広い水面の上でただ乗るだけなら非常に楽しい。逆向きに漕いでいるわけでもないのに、凄いスピードが出る。それに伴う旋回時の横揺れも、生き生きとした躍動を感じさせる。
しかし、ネオ・ヴェネツィアを観光に訪れている乗客たちは、そこまでの激しい興奮は求めていない。ゆっくりとした時の流れを楽しみに、みんなはこの場所(ネオ・ヴェネツィア)に訪れる。だからアイのような力強いゴンドラ操船は、アミューズメント施設のアトラクションででも楽しめば良いのだ。
という訳で現在のアイは、ある意味一流とも言って良い操船技術があるというのに、それをセーブする術を学ばなければならない。
「さて、ウォーミングアップも終了したし、そろそろ本番練習に入りますよ、アリア社長」
湾内を進んでいたアイのゴンドラが、ネオ・ヴェネツィアの街に舳先を向ける。速力を落とした艇体が狭い水路への進入コースに入った。
「ゴンドラ、とおりまーす!」
オールを漕ぎながら声を張り上げて、前方の十字路に自艇の通過を促す。交差する水路を通過すると、右舷の方に小麦粉運びのゴンドラが停船していた。アイの声を聞き、止まって道を空けていてくれたのだ。
「ありがとうございます!」
「頑張って早く手袋無(プリマ)になれよ、見習のお嬢ちゃん!」
アイの感謝の言葉に、彼女のオールを掴む両手に手袋を見つけた配達員が声援を返してくれた。
「はい! がんばります! ありがとうございます!」
アイはもう一つ感謝の言葉を残して、オールをひと漕ぎ、狭い水路へゴンドラを進ませた。
灯里を本日二回目のクルーズに送り出した後、アイはお弁当を持ってアリア社長と一緒にゴンドラ操船の練習に出た。一時から三時の3ブロック目の予約は入っておらず、十一時から一時の2ブロック目の乗客もARIAカンパニーを下船場所には指定してこなかったので、灯里は仕事が終わったら、同じようにお昼に時間の空いたアリスと一緒に食事をしに行くと行っていた。
「アイちゃんも一緒にどう?」と先程誘われたが、アイは断っていた。
折角の機会であるのだから共に食事をしたいという気持ちが、アイにもある。それにこんな機会でもなければアリスに会える機会など早々ないだろう。《黄昏の姫君(オレンジプリンセス)》の通り名を持つアリス・キャロルも灯里以上に引っ張りダコのトップ・プリマだ。自身の自由時間に割ける時間は灯里以上に少ない筈。
そのアリスはアイも昔から知っている先輩水先案内人(ウンディーネ)の一人。そして古くから交遊のある敬愛すべき知人でもある。だからこそアリスにも訊きたいことは山ほどある。自分と一番歳が近いのに、三人の中で一番最初にプリマとなった者。しかもその通り名には所属会社である《オレンジ・ぷらねっと》の一語を拝命するだけの期待の逸材。
可憐な唇から奏でられる舟歌(カンツォーネ)は同僚であり見習い時代の彼女を直接指導した《天上の謳声(セイレーン)》に次ぐ麗しさだと称され、その美声が紡ぎ出す落ち着いた品の良い接客は乗客の受けも良く、そして彼女を希少なる逸材足らしめている操船技術はアリシア・フローレンスが一線を退いた今、水先案内人(ウンディーネ)ナンバーワンの操方を魅せる。
水の三大妖精三人の類稀なる能力を併せ持つ……それは、水の大妖精天地秋乃の再来なのでは? と噂されるほどの存在、それが『黄昏の姫君(オレンジプリンセス)』。
一体アリス・キャロルとはどれだけ凄い水先案内人(ウンディーネ)なのだろう? すごい身近な存在であっただけに、だからこそすごく遠くにも感じる。だから彼女には普段一緒にいられる灯里以上に質問したいことは沢山あった。彼女も両手袋(ペア)時代は、その操船技術には一目置かれていた。オール捌きだけならば手袋無(プリマ)にも充分匹敵するであろうと、当時から称されていた。そしてアリスのその技術は、アイの勇ましくも荒々しい漕ぎ方や、灯里の逆漕ぎのような変わった部分での凄さではなく、水先案内人(ウンディーネ)として一流の操船技術としての凄さだったのだ。だから操船術に関して享受願いたいものは沢山ある。
しかし、何時までも親しい先輩に甘えている訳にもいかないという、気持ちもある。滅多に会えなくなってしまった灯里とアリスという親友同士の束の間の再会時間を邪魔したくない、という気持ちもある。騎士たる者、姫君の貴重な幸福の時を邪魔してはならぬ。
だからアイは、この長い自由時間を遠出しての操船練習に充てたのだ。
「ぷ〜い、にゅ〜」
銀色の光沢を輝かせる金属の半円ボールに乗っかったアリア社長が、ゴンドラの揺れに合わせてごろごろ〜、ごろごろ〜と船底を滑っていく。これはアイが灯里と始めて出会った時に彼女(灯里)がやっていたゴンドラ操船の練習方法だ。滑りやすい金属のボールに乗ったアリア社長をいかに滑らさずにゴンドラを動かすかという、意外にヘビーな練習方法。
「だいじょうぶ? アリア社長?」
「ぷいにゅーっ」
自分を気遣うアイの言葉に「全然だいじょうぶ!」といわんばかりに元気にくるくると回り続けるアリア社長。
ARIAカンパニー沖のネオ・アドレア海を進ませていた時には殆ど動かなかったボールがネオ・ヴェネツィアの狭い運河に入った途端、遊園地のコーヒーカップのように、あっちに行ったりこっちに行ったり、ぐるぐるぐるぐると船底を動いている。
更にゴンドラの速度自体がもの凄く遅くなっている。大海では灯里の無敵の逆漕ぎにも匹敵するほどの速力を見せていたのに、水路に入った途端それが数十分の一にまでスピードダウンしていた。水路内では低速での安全航行が義務付けられているとは言え、これでは遅すぎである。何しろてくてく散歩中の猫とゴンドラに乗っているアリア社長が余裕でお話できるくらいの遅さなのだ。それはそのスロースピードを買われて壊れやすいネオ・ヴェネツィアンガラスの輸送の仕事を受けた片手袋(シングル)時代の灯里以上の遅さかも知れない。
一番最初に灯里のゴンドラに乗った時に「遅いですね」と莫迦にしてしまった過去の自分がもの凄く恥ずかしい。しかもこれだけの低速であるのに、船底のアリア社長はごろごろ〜と揺れまくっている。つまり艇体が安定してない。
「……アリア社長は凄いね」
もし自分がこのボールの上に座っていたら直ぐに気持ち悪くなってしまうだろうなとアイは思う。グランマの時代から社長を務めている彼なので、この程度の揺れではまったく平気なのかも知れない。そしてこんな姿を見ていると「アリア社長って意外に男前だよね」と、アイは思ったりもする。
文句も言わずに――ある意味酷い目に合わせているというのに、見習いの練習に付き合ってくれる火星猫。グランマとアリア社長が初めて出会った時の話をこの間聞いたアイは、改めてそう思う。
姫屋の前にちょこんと座って、じっと海を見つづけている一匹の野良猫。いったい彼は何をやっているのか? 通りかかった若き日のグランマ――秋乃が訊いても彼は何も答えない。揺り動かしてもそこから動こうともしない。雨が降ってもそのままだ。
そして秋乃も誘われるままに彼の隣に座る事にした。二人分の雨合羽を用意して。
一晩立った時、それは訪れた。
彼は待っていたのだ――朝日を。生まれたての太陽を。いったい彼は何故この日の太陽を待っていたのかは判らない。しかしその想いは秋乃の中に、大きなものを一つ残した。
そして天地秋乃――グランマはその出会いと想いを胸に、ARIAカンパニーを立ち上げることになる。そういう意味ではARIAカンパニーという水先案内店ができる切っ掛けを作ったのは、彼の一途な想いなのだ。
そして彼はグランマがいなくなった今でも、その想いを後輩たちに届け続けている。
「アリア社長はもっとその格好良い部分を出していたら、ヒメ社長も振り向いてくれるんじゃないんですか?」
「ぷいにゅ〜?」
アリア社長はアイの誉め言葉が聞こえなかったのか、くるくる回りながら楽しそうにゴンドラの上を揺れていた。
新入社員として採用された後、新人水先案内人(ウンディーネ)にはまず両手袋(ペア)という役職が与えられる。そして両手袋(ペア)が日々行うべき仕事は、訓練である。
両手袋(彼女)らの一つ上のランクである片手袋(シングル)になれば、指導員同乗による水先案内業務や、片手袋(シングル)二人一組になった渡し舟の操船――トラゲットなどで仕事をする機会はあるのだが、両手袋(ペア)にはそのような場は一切無い。しかも手袋無(プリマ)の運行するゴンドラへ同乗しての補助員としての資格すらない。補助員は、もし手袋無(プリマ)が何らかの理由で操船が困難になった場合、変わりに近くの岸まで乗客を送り届ける役も担うわけなのだから、水上での安全を左右する仕事としては、見習いの身分である者にそのような仕事をさせるわけにはいかないのだ。そして逆に言えば、それを行えるだけの操船技術が無いのだから、両腕に手袋をはめたままの見習いなのだと言える。
両手袋(ペア)の訓練は、基本的には長距離クルーズに耐えられるだけの操船技術の習得が主。そしてそれすらも満足に出来ず昇格試験をパスできなかった場合、片手袋(シングル)になれる見込み無しと判断され、解雇処分となる。水先案内人(ウンディーネ)となる夢はそこで断たれる。そしてそれはARIAカンパニーでも同じなのだとアイは思う。
お客さま相手の仕事なのだから、それは当たり前なのだ。人の安全を預かる仕事でもあるのだから、不慣れな者に仕事はさせられない。そしてもし自分が片手袋(シングル)になれる見込み無しと判明した時、その判断を下すのは、唯一の上司である灯里になってしまう。
アイにとっての灯里は、目指すべき先輩であると共に、何年もメールのやり取りをして来た歳の離れた友人でもある。そんな親しい人間に、そんな判断を下さなければならない灯里の気持ちを考えると、アイは時々震えが止まらなくなる時がある。
解雇を言い渡される自分以上に、灯里の気持ちは傷付く筈。それを最期に水先案内の仕事から離れてしまえば良い自分なんかとは違って、それ以後の人生にどれだけ大きなしこりが灯里の中に残るのか?
自分は本当に手袋無水先案内人(プリマウンディーネ)になれるのだろうか? 片手袋(シングル)への昇格すらできないのではないか? そんな風に思う時も多い。
だからこそ自分はこんな所にいて良いのだろうか? と、悩む日も多い。
「……ああ、ダメダメ!」
アイはオールを左手だけで持つと、空いた右手でバシーン! と自分の頬を叩いた。その突然の行動に「ぷいにゅ!?」と、アリア社長が驚きの声を上げる。
「騎士たる者、一度定めた目標を諦めてはならず! 例え困難な目標でも、己の力の限り目標に向かって全力を持って突き進むべし!」
ヒリヒリとした頬の痛みが沈んだ気持ちを吹き飛ばしてくれるのを感じながら、アイはそう叫んだ。それは彼女がいつも読んでいる騎士物語に書かれている一文。騎士はその想いを成し遂げて、困難な目標であった姫の救出を成し遂げた。
だから今度は、自分の番だ!
「がんばりますっ」
アイはもう一つ気合を込めて叫ぶと、オールを再び漕ぎ始めた