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ARIA The NextGeneration 第三節


 水路に進入して一時間ほど経過した頃
「……はぁはぁ……ゴンドラ、とおりまーす!」
 少し息切れのし始めた息を何とか整えて、アイは声を絞り出した。しかし目の前の十字路を越えても、対向船は無かった。無駄に声を張り上げさせられた苦労が台無しになってガッカリしてしまうが、これも水上交通法のルールの一つなので仕方ない。狭い水路をアイの操るゴンドラだけが静かに滑っていく。
 側面に何個ものタイヤを貼り付けた、塗装すらされていない簡素な作りの黒いゴンドラ。片手袋(シングル)時代の灯里が使っていたお下がりだ。古くさいお下がりは嫌……という気持ちはアイには全然無く、灯里の想いが沢山染み込んだゴンドラは、乗っているだけでなんだか勇気がもらえるような気がして逆に嬉しいくらいだった。
 今現在ARIAカンパニーのゴンドラは、白い商用ゴンドラが一隻の黒い練習用ゴンドラが一隻の計二隻。ARIAカンパニーは今までゴンドラ定数を三隻としておいたが、アリシアの引退と共に、彼女がメインに使っていた白いゴンドラの一号艇は共にその任を終えていた。
 最初灯里本人はアリシアが使っていたゴンドラの使用を希望したのだが、水の三大妖精が使っていたゴンドラという貴重な財産をもうこれ以上傷める訳にもいかないと、アリシアの引退と共にゴンドラも水先案内協会が引き取らせてくれと願ったのだ。灯里もそれを快く了承し、アリシアのゴンドラは今現在水先案内人博物館(ウンディーネミュージアム)に展示されている。
 そんな理由なので、以前は予備のゴンドラであった二号艇を灯里は今現在使っている。
 ただ、予備艇が無いということは、ARIAカンパニーが他店に対してせめてもの協力できる要素であった「ゴンドラの貸し出し」ができないと言うことなので、代替艇の新造は行おうと灯里も考えてはいる。メインで使っている白いゴンドラが何時不足の自体で使えなくなるか判らないのだし、予備艇の確保はゴンドラを仕事で使っている会社としては大切な要素だ。
「……はぁはぁ……灯里さんはわたしが手袋無になった時、新しくゴンドラを作ろうって言ってるけど……そんなの何時になるかわからないですよ……はぁ」
 アイは息を整えながら、本気とも冗談ともつかない先輩の言葉を思い出した。
「ぷーいにゅ?」
 呼吸の乱れ始めたアイを見て、アリア社長が気遣うように鳴いた。
「うん……だいじょうぶ」
 とは言ってみたものの、オールを持つ腕がかなり重たくなってきているのは確かだった。
 水先案内人(ウンディーネ)はただゴンドラを前に進ませていれば良いという訳ではなく、乗客を乗せている関係上、艇体を極力揺らさないように気をつけなければならない。船舷を外壁や他船に接触させてしまうなど、もっての他だ。更に極力波を立てないようにしなければいけない。強い波を起こしてしまうと、それはそのまま建物に被り、常に海水に晒されているネオ・ヴェネツィアの建築物を更に傷めてしまう結果になってしまうからだ。
 そしてそれは、とにかくがむしゃらにバーチャルシミュレーションでオールを漕いできたアイには、少し困難な仕事だった。仮想現実から本物のゴンドラに乗り換えてもアイの流麗な操船は引き継がれたが、それは何ものにも邪魔されない海原に限定されていた。それを狭い水路上で実現する為には、必要以上に肩に力が入ってしまうのだ。そのため動きもぎこちないし、必要以上に不快な揺れを起こすし、何しろ遅い。
 水路の壁にぶつけないように。大きな波を立て無いように。乗客に見立てたボールに乗ったアリア社長を極力ゆらさないように。アイは沢山の注意を払いながら、慎重にお下がりのゴンドラを進ませていく。それはとても神経をすり減らす行為。精神的にも肉体的にもまだ両手袋(ペア)のアイには負担が大きい。しかしそれは全ての水先案内人(ウンディーネ)が潜り抜けてきた道程であり、その大変な行為を自然な動きでこなせるようにならなければ手袋無(プリマ)にはなれない。
 慣れない動きの連続で肉体的疲労が早いのは体力的な問題もあるが、筋力トレーニングだけ積めば良いと言うわけでもない。ゴンドラを不用意に揺らさずに波を立てずに優雅に狭い水路を進ませるためには、とにかく漕いで漕いで、身体で艇体の進むクセを覚えるしかない。
 何事も上手くなるためには反復は基本であり、それを嫌がらずに最後までやり遂げた者だけが、成功を掴む。そしてそれは水先案内人(ウンディーネ)だって変わらない。しかも水先案内人(ウンディーネ)は他のゴンドラ乗りの職種と違い、操船だけ覚えれば良いという訳ではなく、乗客を楽しませる接客も覚えなければならないし、要望があれば舟歌(カンツォーネ)も歌わなければならない。
 水面を進む白鳥の比喩では無いが、美しく優雅に仕事をこなすためには、凄まじいまでの努力が必要とされる――それが水先案内人(ウンディーネ)。その典雅な雰囲気に憧れて水先案内人(ウンディーネ)を目指す女の子は多く、毎年その卵が何人も水先案内店に就職するが、ほぼ同じだけの数が手袋無(プリマ)になれることなく、去っていく。それだけ狭き門である……という答えには直ぐにはならない。両手袋(ペア)と片手袋(シングル)を指導する先輩水先案内人(ウンディーネ)が、昇格の実力有りと見とめた見習を上のランクへと推挙することにより、水先案内人(ウンディーネ)は誕生する。だから年間に決まっている水先案内人(ウンディーネ)の昇格数という制限は存在せず、理論上は水先案内人(ウンディーネ)になりたい者がなりたいだけなれる筈なのだ。
 しかし、自分の希望を叶えるためには、相応の実力が伴っていなければならない。つまりそれだけ片手袋(シングル)や手袋無(プリマ)へと昇格するだけの実力を持つ者が少ないという答えになる。努力に努力を重ね、更に限界以上の努力を越えて、水先案内人(ウンディーネ)は誕生する。
 美しくも儚い一瞬の輝きのために、少女達は今日もオールを漕ぐ。その夢を目指して。
「……いたた」
 突然左手にぴしっとした痛みを感じたアイは、追従船がないことを確認してゴンドラを停止させると、オールを縁に置いて左の手袋を脱いだ。掌(てのひら)の指の付け根あたりに並んだマメ。その内の一つが破れて血が滲んでいた。灯里の予想通りマメの一つが潰れてしまっていた。
傷の開いたマメを口に含む。口腔には鉄のような味が、掌からは鈍痛が収まっていくような感覚が脳に伝わってくる。
 アイは船体中央に降りると、縁から手を出し水面に左手を突っ込みバシャバシャと洗った。淡水と海水が混じった水路の水は、旧ヴェネツィアの水路に比べれば綺麗なので、傷口を洗っても化膿したりはしない。水に含まれた塩分が少し染みたが、毎日のようにマメの出来た手を海水で洗っているので、これぐらいの刺激はもう慣れている。マメが潰れる激痛に比べればなんてことない。
 手を洗ったアイは、左手が乾くまで少し休憩をしようと、客席に腰かけた。アリア社長は相変わらずボールの上で楽しそうに回り続けている。
「本物の水ってこんなにも手強い相手なんだね」
 自分の左の掌を見ながら、アイが誰に聞かせるとも無くぽつりと洩らす。正直、こんなにもマメができるものだとは思わなかった。バーチャルシミュレーターでは技術は習得できるのだが、そこは仮想現実であるために、本当に本物がもつ質量や抵抗感は、完全には再現し切れない。そのズレが、こんなにも躍動感ある操船ができるのに、いまだに傷が開いてしまう手のマメという、アンバランスな結果を生じさせている。
 水先案内人(ウンディーネ)は上手く操船できるようになる事によってマメが潰れにくくなり、手をガードする手袋が必要無くなっていく。そしてそれがそのまま昇格の目安になる。最初は利き腕の反対側、そして利き腕。手袋の拘束が解かれる事により、一人前へと一つずつランクが上がっていく。
 アイの利き腕は右腕だ。その反対側のマメがいつも切れてしまっていた。やはり力をセーブしようとして支える方の手に負担がかかっているらしい。がんばって大きな力を手に入れたのに、その大きな力が上手く使えないジレンマ。
「そう言えば騎士様も最後は誰も知らない遠くへ行ってしまうんだよね」
 アイの愛読書である騎士物語。そのラストで見事大魔王を倒し姫君を救出した騎士は、凱旋の途上で一人の少年に問い掛けられる。
『もし騎士さまが怒ったらいったい誰が止めるの?』
 少年はなんでそんなことを訊くのか。
『だって騎士さまは大魔王を倒したんだよ。だったら大魔王より強いってことじゃない。そんな大魔王より強い騎士さまをいったい誰が止めるの?』
 少年の言葉はその場にいた全員の耳に深く刻み込まれた。今まで尊敬の眼差しで見ていた騎士に対する目線が、怖気を伴ったものへと変わる。大魔法を倒すほどの大きな力を手に入れてしまって、今度はその大きな力の所為で居場所を奪われてしまった騎士。
 騎士は己の中に流れる騎士の心得に則り、翌日には姿を消した。己の力から民を守る為に、自分自身の存在を消したのだ。彼は本当に最後の最後まで騎士だった。
「……」
 一生懸命練習したのに、本番の水路の運行では全然上手く使えない自分の力。本当に物語の騎士と同じだなと思う。
 しかし自分は騎士のように消えてしまってはいけない。自分の力は大魔王を倒すなんてとんでもないものじゃない。ちゃんと自分で制御できる力の筈なのだ。


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