ARIA The NextGeneration 第七節
「このパニーノ美味しいです」
「そうですか? ありがとうございます」
「でも本当に全部食べちゃって良いんですか?」
「はい、いつも多めに作ってきて、食べ残しちゃうんですよ」
後ろからかけられた声に、アイはオールを漕ぎながら答える。ちなみに本日のアイは、自分用にパニーノを六個も持参していた。多く食べなくてはならないのは判るが、はっきり言って作り過ぎである。
アイのゴンドラがネオ・ヴェネツィアの狭い水路を再び進んでいた。しかし先程までとは一つ大きな違いがある。ゴンドラ後部のペッティーノからロープが伸び、その先にはエアバイクが牽引されていた。そしてその上には先程のエアバイクを引っ張っていた女の子。
アイは彼女の壊れたエアバイクを引っ張る手伝いを申し出たが、流石にアイも含めた二人で数百キロの車体を徒歩で引っ張って行こうとしていた訳ではない。もちろんアリア社長も手伝ってくれるだろうが、一人と一匹増えただけでは日没の到着予定が夕方程度に早まるだけだ。
そこでアイは自分の操るゴンドラでエアバイクを引っ張ることにした。大型のゴンドラでは一〇人前後の乗客を乗せて一人の水先案内人(ウンディーネ)が運行する場合もある。水の抵抗とそれに伴う浮力、そしてオールの梃子の原理を利用すれば、たった一人でもそれだけの大重量を動かすことが可能なのだ。自分のゴンドラはとんでもないくらいの低速だが、人力で動かす場合には到底発揮できない『パワー』がある。それを使わない手は無い。
しかしここで一つの問題が。
アイは一般客を絶対に乗せてはならない両手袋(ペア)。だから自分の操るゴンドラには関係者(ウンディーネ)以外の者を乗せてはいけないのだ。そのため最初は女の子にはフォンダメンタ(運河沿いの道)を徒歩で着いてきてもらおうと思ったのだが、お腹を空かせている彼女。歩きながらの食事は可哀想だと「じゃあ引っ張るエアバイクに乗ってもらえば良いのでは?」と、少し裏技的なことをしていたのだ。すれ違う他の水先案内人(ウンディーネ)に咎められたら、申し訳ないが直ぐに降りてもらうつもりだったが、幸か不幸か対抗船はいまだ無い。
「ふぅ、美味しかったです」
「紅茶も全部飲んじゃって良いですよ」
「はい、助かります」
ポットの中の琥珀色の液体をコップに注ぎ、女の子は一気に飲み干した。少しぬるくなった甘い紅茶が、疲れた身体に染み渡って美味しかった。
「ごちそうさまでした」
空になったポットをバスケットに収めると、女の子は礼を述べた。使った昼食の入れ物を返すには少し距離があるので、とりあえずエアバイクの荷台に載せておく。
「おそまつさまでした」
女の子が食べ終わったのを確認すると、アイはゴンドラの速度を少し上げながら訊いた。
「え〜と、この水路をとりあえず真っ直ぐ進んで行けば良いですよね?」
食事を邪魔してはならないと、アイは彼女の目的地に関することは訊かずに黙っていたのだ。速度も何時もの低速を更に半分位に落として余り揺れないようにしていた。騎士たるもの婦女の食事を邪魔してはならぬ。食事が終わるまで感と推測をもって行動待機せよ。
「あ、はい。此処を真っ直ぐ行ってそれから……あ!? そうだ、すっかり忘れてました」
「はい?」
「わたしカンナレージョ地区のトゥリパーノっていう花屋で働いてますアルティシアって言います」
アイのさり気無い優しさに守られていた女の子が、急に思い出したように自己紹介を始めた。空腹が満たされてやっと落ち着いた彼女は、助けてくれている相手に名乗りすら上げていなかったことに気付いたのだった。
「……あ、そうですね、自己紹介してませんでしたね」
そこでアイも、お互いの名前も知らず此処まで来てしまった事実に気付いた。相手に対してここまで優しく気配りできるというのに、自己紹介をすっかり忘れてしまうヌケっぷりは、やはりアイにも《天上のドジっ娘》を名乗る素質はあるようだ。
「え〜と、わたしは……」
「ARIAカンパニーの……アイさんですよね? 水先案内人(ウンディーネ)さんは」
「!?」
「そっちの火星猫さんはアリア社長ね?」という問いに「ぷいにゅっ」とアリア社長が元気に答えているが、名乗る前に突然自分の名前ばかりか 所属会社まで言い当てられて、ついオールを落としそうになってしまうアイ。
「……やっぱり判ります? わたしがARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)だって」
「うん、最初は判らなかったけど、後ろから見てたら判ったんだ、ARIAカンパニーの制服だーって。その制服有名だもんね――ネオ・ヴェネツィアの住人だったら誰でも知ってるんじゃないかな? それに先月の月間ウンディーネにアイさん自身が載ってたでしょ? 私ミドルスクール時代の後輩が同じように水先案内人(ウンディーネ)やってるんで、月間ウンディーネも良く読むんだよ、だから名前も判ったんだ」
「ううう」
その言葉に改めて鉛を飲み込んだような気持ちになるアイ。
「雑誌に載ってる人とこうしてお話できるなんて、なんかちょっと嬉しいなぁ」
「そ、そう思ってい、ただけると、光栄、です……」
なんだかギクシャクした話し方になっているアイの姿を見て、アルティシアが少し不審がる。
「どうしたのアイさん?」
「あの、まだ手袋無(プリマ)しになっていなかった頃の水無灯里をご存じですか? ARIAカンパニー所属の水先案内人(ウンディーネ)なのですが」
アルティシアの質問を質問で返すアイ。
「みずなし…ああ《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんのこと? うん知ってるよ、いつも他の会社の人と三人で楽しそうに練習してたっけ……そういえばその中の赤い制服を着た水先案内人(ウンディーネ)さんが、うちのお店の近くにできた姫屋の支店に配属になったから、時々《遥かなる蒼(アクアマリン)》さん本人も見るよ。うちの店でもたまにお花買ってくれるし。アリア社長も来てくれたことあるよね?」
「ぷいにゅ」
アルティシアが灯里についての話をすると、その度にアイの表情が曇っていく。アルティシアからはアイの背中しか見えないが、どんどん気落ちしていく雰囲気はその背中の感じで判る。
「わたしなにか、悪いこと、言っちゃいました?」
「い、いえ! 全然そんなこと無いです!」
申し訳なさそうに言うアルティシアに、自分の気持ちを見透かされてしまったアイが全力で訂正する。
やはり、ARIAカンパニーの銘は、有名だ。
ネオ・ヴェネツィアには数人規模で運営される水先案内店は数多く存在するが、その小規模店の中でも間違いなくトップの知名度を、ARIAカンパニーは誇るだろう。
しかも姫屋やオレンジぷらねっとのような大規模店のように街中に広告を掲げたりはしていない。その全てが口コミによる集客で賄われるARIAカンパニーは、それだけ地域に密着した会社だということ。
だからやっぱりARIAカンパニーの制服は何処にいても目立つ。その全ての者がトップ・プリマであった歴代の水先案内人(ウンディーネ)の名声はそれだけ大きい。そしてそれはそのまま末妹のアイにプレッシャーとして圧し掛かってくる。
それを改めて実感させられて、アイは軽い慄きを感じていた。
騎士たるもの、如何なる重圧も撥ね退けて初志貫徹するべし……とは言うものの、騎士として――水先案内人(ウンディーネ)としてまだまだ半人前にすらなれていないアイには、騎士となり切った意気込みだけではどうにもならない時もある。それがこんな風に、ふとしたところで知らされるARIAカンパニーの銘だったりする。
ARIAカンパニーに所属して来た手袋無(プリマ)達は、全員が水先案内業界の中でトップクラスの力を持ってきた者たち。その末席にいる自分がもし手袋無(プリマ)になれなかったらどうしよう。もしこのまま片手袋(シングル)にすらなれず両手袋(ペア)のままで終わってしまったらどうしよう。そしてその程度の実力しかない者を入社させた水無灯里の評価が下がってしまったらどうしよう……。
そう考えると、アイがこんなに胸苦しい気持ちでARIAカンパニーの両手袋(ペア)を務めているのは、自分のことをARIAカンパニーに入れてくれた灯里の所為と言えるのかも知れない。
でもこんなにも胸の苦しい想いを幸せだと感じる自分も、確かにいる。臨時の手伝いではなくて、本当の意味でARIAカンパニーの社員になり、水無灯里の助けができる自分を。
この重圧を嬉しく感じる内に、自分は手袋無(プリマ)にならなくてはならない。そうでなければこのプレッシャーに押し潰されてしまう。
それだけネオ・ヴェネツィアの人々の、ARIAカンパニーの新人水先案内人(ウンディーネ)に対する期待は大きい。恐ろしい程に。
「アイさん……プレッシャーを感じたりしてます? ARIAカンパニーの見習いになった自分に?」
後ろからかけられた声に、アイの心臓がどきりと大きく波打つ。自分の心の中を見透かされた声に、驚きに目を見開いて後ろを見る。
「偉大なるグランドマザー……あの大妖精は、水先案内人(ウンディーネ)だけじゃなくてこのネオ・ヴェネツィア全体の誇りだもんね。だからこそグランマが立てた店はとても有名で、誰でもARIAカンパニーの制服は知っている。そこに入った新人を見る目にも強い期待が込められているのを感じるでしょう。そしてその銘を汚さないようにするにはどうすれば良いのだろうと考えると、夜も眠れない時もあると思う」
「あ、あの……な、」
なんでわかるんですか? アイはそう続けようとしていたのだが、パクパクと口が開閉するだけで、喉から言葉が出てこない。
アルティシアと名乗った花屋に務める女の子。その勤務地はカンナレージョ地区。それは先程出会った藍華が長を務める姫屋の支店がある場所。自分にとってはそれだけの情報しかない彼女。しかし相手は自分の情報をかなりの量、保有している。
その事実に只ならぬ戦慄を感じる。自分の中の騎士としての正義感に則り助けた、見ず知らずの女の子。しかし実はとんでもない相手を助けてしまったのではないのだろうか?
「私もね、ミドルスクール時代の同級生でオレンジ・ぷらねっとにスカウトされて、学生でありながら水先案内人(ウンディーネ)になった娘がいてね」
「それって……アリス・キャロルさんと同じですね」
不意に振られた話題。アイも急激に自分の話の事柄から遠ざかったので、安心を表すように相槌を打つ。
「うん、そう。《黄昏の姫君(オレンジプリンセス)》の再来か!? ってな感じで月間ウンディーネにも取材されてさ……でも、彼女はオレンジ・ぷらねっとの手袋無(プリマ)にはなれなかった……ミドルスクールを卒業して片手袋の資格をもらえるようになった後、なんども、なんども昇格試験に挑戦したんだけど……結局ダメだった」
幾度となく昇格試験に失敗し、結局両手袋(ペア)のまま上に昇れなかった彼女。それはそのまま自分の未来予想図のような気がしてきて、背中に嫌な汗が流れてくるのをアイは感じた。
「すんごい重圧だったんだと思うわ。彼女、学生時代はとってもオール捌き上手かったのに、それが本番では全然発揮できないなんて……一体どれだけ苦しんでいたんだろうって」
自分の背中へ向けられる淡々とした語りは、容赦なくアイの胸へ背後から突き刺さる。
何故彼女はこんなことをわたしに話すのだろう?
新人水先案内人(ウンディーネ)を苦しめて楽しむという猟奇的趣味がアルティシアにはあるのだろうか? 先程の自分の中を見透かされたような発言を思い出すと、そんな考えも過ぎってしまう。
「でもね、オレンジ・ぷらねっとを辞めた翌日に私の所に報告に来てくれたんだけど、その顔がすんごく晴れやかだったんだ『やめてきちゃったよ♪』なんて、ひまわりみたいな笑顔で言うもんだから、こっちがどうしようかと思っちゃった」
「……その方は、その後どうされたのですか?」
プレッシャーからの開放。それを退職という形で取った彼女。それは未来の自分の姿かも知れない。
本当ならそんな未来、知りたくない。しかしそれは先輩水先案内人(ウンディーネ)の一人が潜り抜けた道程の一つ。だから自分にはそれを訊く義務があるのだろうと、アイは先を促した。
「ちっちゃい会社に再就職したんだ」
告げられた現実の未来図。それはアイも半ば予想していた答えだったが、アルティシアの口から続けられた言葉は、予想の終焉をほんの少し変えたものだった。
「で、その後が凄いのよ。再就職の翌日に片手袋(シングル)昇格試験を受けてそのまま合格しちゃったんだもん……オレンジ・ぷらねっとでは何度やってもダメだったのに、再就職先では一発合格なんてね」
重圧から開放された彼女は本来の自分を取り戻し、自分自身に蓄積されていたゴンドラ乗りとしての腕を如何なく発揮できたのだろう。
「だからその時思ったんだ……プレッシャーって凄い力なんだな、って」
重圧(プレッシャー)。直ぐにでも手袋無水先案内人(プリマウンディーネ)になれそうな娘を、容易につぶしてしまうほどの恐ろしい力。しかもそれは住民が悪意を持って行うものでは無いうえ、影響を受ける当事者にとっては遮りようが無い。それに抗えるのは己の中の忍耐力だけという事実。
「わたしたちネオ・ヴェネツィアの住民は過度の期待をしているつもりはないんだけど、新しい水先案内人(ウンディーネ)が誕生するのを待ち望む目を向けてしまうのは仕方ないよね。しかも名の知れた店の新人ならば」
「……」
その話を聞いて、アイの身体が更に強張(こわば)ってしまう。身体が硬くなってしまえば、ゴンドラの動きもそれだけ鈍くなる。
「……アイさん、なんだかゴンドラの進みがすっごく遅くなりましたけど」
てくてく進んでいく猫の親子連れにすら抜かされていくアイのゴンドラ。アリア社長が最後尾の仔猫に手を振っている。
「すみません、わたしまだまだへたくそで」
「アイさんのオール裁きはヘタじゃないと思うけどな。わたしもネオ・ヴェネツィア生まれだから子供の頃からゴンドラ乗りの職業の人はいっぱい見てきたけど、それでもアイさんは上手な方だと思うよ」
「でも……遅いです」
オールを握る手に力が入る。そうしないとなんだか身体が震えてくるような気がする。
新人水先案内人(ウンディーネ)に向けられるプレッシャー。今まさにアイはその圧力を背後から直接受けている――そんな気分だった。
「……」
沈んだ気持ちのままオールを漕いでいると、前方に大きな空間が広がっているのが見えてきた。光と音と大きな水に満たされた空間。大運河だ。
アルティシアの花屋のあるカンナレージョ地区に向かうにはこの大運河を越えなければならない。ゴンドラのみならず水上バスや貨物船なども大量に行きかう交通の要所。
「だ、だいじょうぶですか?」
水上交通の難所に何のためらいも無く乗り出したアイに対して、思わずアルティシアが声を上げる。
「はい? あ、少し揺れますのでしっかり?まっててくださいね」
しかし自分の得意フィールドにやってきたアイはアルティシアの「だいじょうぶ?」という言葉の意味が良く判らないかのように、一つ大きくオールを弾くと、力強くゴンドラを押し出した。
アイのゴンドラが大運河の中心を進んでいく。様々な船が犇(ひし)めき合う真っ只中を、後部にエアバイクを牽引した艇体が水の上を滑(すべ)るように翔ける。まるで他の船の動きが予測できているかのように、大型船の運航を邪魔することなく隙間をぬう様に、滑(なめ)らかに。
「お嬢ちゃん、相変わらず良い動きしてるな〜」
「はい、ありがとうございます!」
水上バス(ヴァポレット)の運転手からかけられた声援に難なく答える余裕を見せながらアイのゴンドラは対岸に着いた。ここまで来ればカンナレージョ地区はもうすぐ。
「もうすぐ着きます……よ?」
到着が近づいたことを伝えようと後ろを振り向いたアイの瞳に、心底びっくりしたようなアルティシアの顔が映った。
「す、すいませんっ、揺れ酷かったですかぁっ!?」
沈んだ気持ちを払拭しようと、現状の自分の実力を最大限に発揮できる場所で思いっきり漕いだのがいけなかったか、相手を不快な気持ちにさせてしまったみたいだ……そうアイが思っていると
「すごいよ、アイさん! オール漕ぐのめちゃくちゃ上手いじゃない!?」
そう、大運河に出た途端のアイの豹変振りにアルティシアは驚いていたのだ。狭い運河内での超低速走行とは別人のような動き。荒々しく勇ましく、でも何処と無く優しさを含んだ、優美なオール裁き。アルティシアはアイの捌くオールの水しぶきを軽いなれど何度も受けたのだが、それすらも楽しませてくれる動き。後にエアバイクを曳航しているというのにまったくバランスが崩れないのは驚愕に値する。
「アイさん、こんなにゴンドラ乗るの上手いのに何で両手袋(ペア)のままなの!?」
そう、その事実にもびっくりしてしまう。なんでこんな逸材が客も取れない見習いのままなのか?
「普通の狭い運河だと……遅いですから」
大運河から通常の水路に再び戻ったアイのゴンドラは、再び超低速走行に戻ろうとしていたが
「アイさん、あんまりスピード落とさないで。他の水先案内人(ウンディーネ)さんのゴンドラと同じくらいのスピードを維持して。それとそこの水路を曲がる時、曲がる方向に少し身体を傾けてください」
「は、はい!?」
「いいから、やってみて」
「……はい」
いきなり後ろからそんな風に言われて何のことやらさっぱり判らなかったが、アルティシアの口調が優しく諭すような響きなので、とりあえず素直に従う事にした。
アイのゴンドラが最良速度で水路を進み「ゴンドラ通りまーす!」の掛け声と共にT字路に突入する。
「そこで腰を入れて、自分の体重でゴンドラの船尾を振るように……そう、自分のお尻を振るのを、ゴンドラにも伝えるように」
アルティシアが細かい指示を続けてくる。その全てをアイの頭は理解出来ず、アルティシア自身も自分が伝えたい事の全てを伝えられなかったが、新米水先案内人(ウンディーネ)として鍛えた身体はしっかり反応していた。
「あれ?」
すると、荒削りながらアイのゴンドラは速力をあまり落とすことなく水路を曲がることが出来た。
「な、なんか、アルティシアさんの言うとおりにやったら上手く曲がれちゃいましたけど」
「うん、なんかアイさんのゴンドラの動かし方って、船を漕ぐというよりも本当に馬に乗っている感じがしたから、バイクの跨り方が参考になるかなって思ったんだけど……」
ギクシャクはしているが、何時ものノロノロ運転に比べれば格段の口上だ。ビックリした顔でアイが後ろを振り向く。
「これはエアバイクを乗る時に個人的に会得した乗り方なの。後ろに積んだ花を傾けないように上手く曲がるにはどうすれば良いかなって。ほら、前見ないと危ないですよ」
「あ、はい!?」
ぐるんっと再び前を向くと、アイは再び操船に専念した。通常の運行でも確認の為に後ろを見たりもするが、長時間振り向いたままでは危険なのは確かだ。
(やっぱり綺麗な立ち姿だね)
改めてオールを捌くアイの後姿を見たアルティシアが、そう感想を洩らした。運河を進んで行く水先案内人(ウンディーネ)の後姿を見ることは多いが、操船中を真後ろから見る機会なんて、普通だったら無いだろう。そんな希有な機会に真正面から捉えられた彼女の背中は、とても綺麗だ。
(この娘の背中には一本真っ直ぐな線が通っている。まるで本物の騎士様の立ち姿みたい)
その優美な立ち姿はアイが「騎士として生きる為」に自然と身につけたものなのだが、それが高い操船技術を生み出す下地になっているのは確かだ。だからこそ彼女は、自分の簡単な指示だけで今までとは違う操船をみせた。だから後一押ししてあげれば。
アルティシアはそう思うと居ても立ってもいられなくなり、エアバイクのシートから立ち上がった。
「え!?」
アイは突然後ろから抱きしめられた。振り向くとアルティシアの横顔が間近に。
「アルティシアさんなにを!?」
幾らオール捌きに専念していたとはいえ、彼女がエアバイクを降りてロープを伝って操船台まで来て自分を羽交い絞めにするまでまったく気がつかないとは。
「アイさん、このまま大運河を渡ったときみたいに思いっきり漕いでみて」
「え? ……は、はい」
何がなにやら判らない状態なのだが、アルティシアの真剣な瞳が何かを伝えようとしている光を帯びているのを感じたアイは、彼女の指示に素直に従うことにした。アルティシアの身体の感触を腕や背中に強く感じながら、アイはゴンドラを漕いだ。
アイがネオ・アドレア海を進む時のように力強くオールを振るうと、自分を抱え込んでいるアルティシアの腕を中から押し広げることになる。しかしアルティシアは大きくなってきた内圧を力任せに押さえ込もうとすることは無く、アイの腕を優しく包み込む。
すると不思議なことに、腕同士が接触する度にアイの腕がそこで止まり、全力で進ませたら大振りに動く筈のアイのゴンドラが、狭い水路でも一般的な観光用ゴンドラ並みの速力で進んでいる。まるでアルティシアの腕に自分の余分な力が吸収されて行くように。
「あ……あれ?」
「ほら、そこの角を曲がるときにさっき言ったみたいに自分のお尻とゴンドラのお尻を同時に振るように進んで」
「は、はい!」
アイは「ゴンドラ通りまーす!」と再び声を張り上げると、アルティシアの指示に従って身体を動かした。
「そして想うの。いつでも自分が一番大切に想っている人がこうやって、後ろから抱いていてくれるから大丈夫だって。今は私が抱いてるけど、アイさんが一番大切に想う人が抱いてくれているって想ってみて」
そう言われて一番に想像したのは、やはり灯里だった。父も母も大切だけれどやっぱり一番最初に過ぎった大切な人は、灯里だった。自分が水先案内人(ウンディーネ)になると――騎士になると誓ったあの日。彼女に抱きしめられた時に感じた甘くて優しい匂いと、そして寂しさの香り。
「……あ」
追憶の世界にいたアイは、自らの操る艇体が驚く程の滑らかさで角を曲がっていくのを、まるでモニターに映る映像を見るように感じていた。スィーっと、音も無く波も立てずゴンドラが十字路を旋回していた。大海を翔るアイの力いっぱいのゴンドラ操船をコンパクトにまとめたような、強さと優雅さを兼ね備えた見事な旋回だった。
「すごーい! やればできるじゃないアイさん!」
アイの細い身体をぎゅうぎゅうと抱きしめてアルティシアが歓声を上げる。
しかし一番驚いているのはアイ本人だ。
今まで身体が強張ってしまってどうにも上手く観光用最良速度で通行できなかった水路が、こんなにも簡単に通り抜けられている。
「これはね、我が女子ゴンドラ部に伝わる伝統の練習方法なのよ。アイさんのように大きな力を上手く使いこなせない女の子に、最良の力を引き出させる秘密の方法。アイさんのようにひたすらに直線的な操方が得意になる娘も他にもいるの。そんな娘に力の制御方法を教えるのがこの方法なの。ちょっと強引だけど、私の抱いた感触をテンプレートとして覚えていれば、もう大丈夫」
「……アルティシアさん」
「わたしもこう見えても、元ゴンドラ部だからね。ちなみにオレンジ・ぷらねっとにスカウトされた娘にこの方法で教えていたのは、何を隠そう私なの」
「え!? そうなんですか!?」
「これでも結構オール捌き上手かったんだから〜、今はお花屋さんだけどネ」
名の通った会社にスカウトされる程の逸材を教えていたという事は、このアルティシアという女の子も、相当なゴンドラ操船の技量を持っているということになる。では何故それだけの技量があるのに彼女はオールを操る仕事の道に進まなかったのだろう?
「アルティシアさんは水先案内人(ウンディーネ)になろうとは思わなかったんですか?」
アイはその単純な疑問をぶつけた。
「その辺りの深い話はお茶でも飲みながら話しませんか? ここまで運んでくれたお礼に三時のおやつくらいはご馳走しますよ」
そう言いながらアルティシアが前方に見えてきた一軒の小さな店を指差した。その店先には沢山の綺麗な花。
「ようこそトゥリパーノへ!」