ARIA The NextGeneration 第八節
ARIAカンパニーに灯里が帰ってくるまでまだ時間があるので、アイはお言葉に甘えてアルティシアの店で休ませてもらうことにした。流石に五〇〇キロもの物体を運んできて疲れていた。このトゥリパーノという花屋はアルティシアの勤める店であると同時に彼女の実家であるという。父と母とアルティシアの三人で営業をしている。
「私、生まれつき心臓が悪くって。ゴンドラ部に入ったのも多少は身体を鍛えようと思ったからなんだけどね。ちょっとくらいの操船だったら良いんだけど、水先案内人(ウンディーネ)くらい長時間動かすのは無理なんだ」
「すいません! そんな失礼なことを聞いてしまって!」
アイは椅子から立ち上がるとすごい勢いで腰を九十度折り曲げて頭を下げた。騎士たるもの己が失した非礼は全力を持って謝罪すべし。
「いいって、気にしないでっ、もう、座って、座って」
彼女は本当、周りの人間の方が心配になってしまうくらいにまっすぐで透明な娘なんだなと、アルティシアは思う。アイのことを座らせると話を続けた。
「それに家業を継ぐっていうのもあったしね。私一人娘だから」
アイは店の奥のリビングに通されて午後のティータイムのもてなしを受けていた。ダージリンティの香ばしい匂いが室内を包んでいる。
「アルティシアってばもう、そんなステキなお客さまを連れてくるんだったら、あらかじめ言ってくれれば良いのに〜」
そう言いながらアルティシアに良く似た顔の少し年配の女性が、奥のキッチンから顔を出した。トゥリパーノの店名が刺繍されたアルティシアとお揃いのエプロンを身に着け、手にはお皿を乗せたトレイを持っている。皿の上には山盛りのクッキー。目ざとくそれを見つけたアリア社長が「ぷいにゅっぷいにゅっ」とバンザイしている。
「せっかく水先案内人(ウンディーネ)さんが来てくれたってのに、いつものお茶請けしかないわよ〜」
「い、いえそんな、恐縮ですっ」
アルティシアの母がクッキーの載った皿をテーブルに置くのと同時に、アイも再びがばっと立ち上がり頭を下げた。アルティシアは、アイのそんな何時でも正々堂々な生真面目さが可笑しくって、ついくすくすと笑ってしまった。
「ほらアイさん、良いから座って座って、母さんもそんなこと言ったらアイさん緊張するでしょ!」
「だってあのARIAカンパニーの期待の新人さんが来てくれたんだよ〜」
「もう、母さんは仕事に戻ってよーっ、折角アイさんにうちで休んでもらってるのに、これじゃ休憩じゃなくなっちゃうでしょ?」
「え〜私にももうちょっとお話させてよ〜」
アルティシアは母に背を向けさせると、そのまま店の中に押して行った。母は不満そうだったが、しぶしぶ自分の仕事に戻って行く。アルティシアがリビングに戻ると、アイは紅茶にも手をつけず、縮こまって座っていた。
「もう〜、ほらぁ、アイさんもそんな固くならないで。紅茶も冷めないうちにどうぞ」
「……水先案内人(ウンディーネ)が家を訪れた場合、どこの家でもこんな風におもてなししてくれるのですか?」
少し冷め始めた紅茶に口をつけながらアイが尋ねた。
「う〜んそうねぇ、やっぱり水先案内人(ウンディーネ)ってこの街のアイドルだからね。家族の誰かがいきなり友達として水先案内人(ウンディーネ)さんを連れてきたら、大体同じような反応をするんじゃないかな? 前に片手袋(シングル)になった同級生の娘を連れてきた時も大騒ぎしてたっけ、うちの母さん」
そのアルティシアの台詞に含まれていた一つの言葉にアイが小さく反応した。
「……友達」
アイが改めてその言葉を自分の中で咀嚼するように、小さく呟いた。
「ん?」
「私はアルティシアさんの……友達で良いんですか?」
少しうるっとした瞳で、アルティシアのことを見上げるアイ。
「私はもうずいぶん前から――そう、パニーノをご馳走になったくらいから、友達のつもりだったけど? アイさんが嫌なら……」
アルティシアの言葉を遮るようにぶんぶんと首を横に振るアイ。
「わたし水先案内人(ウンディーネ)になるために《AQUA》に来てからは練習ばっかりで、友達なんて作る暇無くて、だから……嬉しくて」
とにかく早く片手袋(シングル)にならくてはと、ひたすらに練習に打ち込んでいたアイは、それ以前に《AQUA》に来訪していた時以外の友人は作ることが出来なかった。だからアルティシアはアイが水先案内人(ウンディーネ)になってからの友人第一号。
「そんなうるうる目で見つめられたら困っちゃうよ〜」
大きな瞳で見つめてくるアイ。見つめられる側のアルティシアは再びテーブルに着きながら、少し照れ隠しに頭をボリボリと掻くしかない。
「でもクールだと思ってたアイさんって、話すと結構普通の女の子なんだね」
「クール? 普通?」
「うん、クールで普通」
クッキーを一つ取り、ボリっと噛み砕きながらアルティシアが続ける。
「今までにもたまに見る時があったんだ、ARIAカンパニーの新人さんの姿。いつも一人で黙々と練習している赤いリボンをつけた女の子。その時は全然判らなかったけど、それがアイさんだったんだね」
アイはアルティシアのことを今日始めて知ったが、アルティシアはアイのことを随分と前からその存在を知っていて、その姿も見ていた。水先案内人(ウンディーネ)になるということの意味の重さ、そして「見られる」という事も水先案内人(ウンディーネ)の大きな仕事である事実。
その事実がアイの心を動かした。
「……あの、お友達になってくれたアルティシアさんにご相談したいがあって」
今まで考えても誰にも言えなかったこと。でも友人になってくれた彼女には、打ち明けられると思ったこと。友人になってくれた彼女には話しても良いかなと思ったこと。
「え? なに?」
「……最近ARIAカンパニーに入社したことに対する重さを感じているところなんです」
「重さ?」
アイは今まで自分が思ってきたことをアルティシアに打ち明けた。
「早く灯里さんと同じにならなきゃって思うのに、いまだに狭い水路ではノロノロ運転しかできなくて、さっきアルティシアさんのアドバイスで上手く出来ましたけど、それがこれからも、何時でもできるか判らないし……」
何故さっき始めて会ったばかりの女の子にここまで喋れるのか判らないが、とにかく口が動いて自分の気持を吐露していた。アルティシアが話してくれた自分の後輩の話も、気持ちの後押ししてくれてるのだろう。
「だからいっつも自分を奮い立たせるために騎士の真似事をして何とかしてきたんですけど……いまだに見習いでしかない両手袋(ペア)のままの自分を見て、本当にこのままで良いのかなって思う時があって」
「じゃあアイさんはARIAカンパニーに入らなければ良かったんじゃないかな?」
「!?」
グサリとアルティシアの言葉がアイの胸に突き刺さった。それは真理の言葉。アイも何時も思っていたが、絶対に想像しないようにしていた言葉。そしてそれを他人の口から告げられた衝撃の苛烈さ。
「……そうなんですけど」
「でもアイさんはARIAカンパニーに来た。それはそうまでしてARIAカンパニーに来たかった理由があったからでしょ?」
「……はい」
「そうだよね――じゃなきゃ、ARIAカンパニーに入りたいって思わないよね」
「? それはどういうことですか?」
アルティシアの言葉に、アイが思わず聞き返す。
「このネオ・ヴェネツィアでARIAカンパニーの手袋無(プリマ)の仕事ぶりを見てきた水先案内人(ウンディーネ)の卵たちは、誰もARIAカンパニーには入りたがらなかったもん」
「……え?」
「有名すぎるし、所属する手袋無(プリマ)たちも能力が高すぎるし、そんなところで自分が務まる分けないって、普通は思うもん。自分が手袋無(プリマ)になる前に潰れちゃうって」
アルティシアから告げられる意外な真実。水先案内人(ウンディーネ)を目指す少女達にとっては憧れの場所ではあるけれど、その場所に溶け込む為にはとてつもない苦労、心労が伴うのが判っている。それだけ偉大な銘。《薔薇の女王(ローゼンクイーン)》となった藍華・S・グランチェスタも最初はARIAカンパニー所属の水先案内人(ウンディーネ)を目指していたと言われるが、彼女の直接の指導をしていた《真紅の薔薇(クリムゾンローズ)》がそれを止めさせたのは、そういう意味もあったのかも知れない。
「だからARIAカンパニーの名前を受け継いでいけるのはアイさんや《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんみたいな、プレッシャーの伝わらない所で生まれ育った地球(マンホーム)出身の水先案内人(ウンディーネ)だけなのかも知れないね」
水先案内業界の中心人物の一人でもある先達と、まだ片手袋(シングル)にもなれない新米の、唯一の共通項。
「アイさんと同じく地球(マンホーム)からやって来たARIAカンパニーの先輩さん《遥かなる蒼(アクアマリン)》の水無灯里さんって、凄い手袋無(プリマ)だよね。両手袋(ペア)時代も片手袋(シングル)時代も、私たちの新人水先案内人(ウンディーネ)を見る視線に緊張することなく、いつも楽しそうにゴンドラを漕いでた。《白き妖精(スノーホワイト)》の後輩は一体どれだけの逸材なのかと、それは注目度の高い視線を送られ続けただろうけど、それに臆することなく見事に手袋無(プリマ)になっちゃった。さらに誰とでもすぐに仲良くなれちゃう。私も《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんに声かけてもらったことあるよ。すっごく柔らかい笑顔だなーと思ってたら、いつの間にか話し込んでた」
その言葉に、アイが再びドキリとする。
灯里は全然普通の手袋無(プリマ)じゃない。誰とでも仲良くなれる力。それが灯里のもつ特殊能力。その力は一緒に練習していた《薔薇の女王(ローゼンクイーン)》も《黄昏の姫君(オレンジプリンセス)》も、持ち合わせていない力。多分水先案内人(ウンディーネ)としては最高の力。その力を惜しげも無く発揮できる水無灯里は、業界最高位の水先案内人(ウンディーネ)と言って良いのかも知れない。水の大妖精の名を真に継げる可能性を有する者。
「ごめんね、アイさん」
アルティシアの言葉に再び大きく自信を消失しかけていたアイに、いきなり彼女の謝罪の言葉が投げかけられた。
「え!? なんで謝るんですか!?」
「だから言ったでしょ、アイさんは普通の女の子なんだって」
「??」
アルティシアの投げかける言葉の繋がりがまったく判らずチンプンカンプンになるアイ。
「だって《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんは普通の女の子じゃないもん。地球(マンホーム)っていう遠い星からやって来た女の子が物怖じしないで、知らない世界(AQUA)をずんずん進んでいくなんて普通は無理だと思うもん。私が《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんの立場だったら絶対に無理。だからこそアイさんは、そのARIAカンパニーの制服を着てるってだけで、充分アイさんの役目を果たしていると思うよ」
水先案内人(ウンディーネ)を目指す者全員が憧れ、そして全員が畏怖するARIAカンパニーという銘。そんな場所に入った勇気は、本当に騎士そのもの勇気ある行動だとアルティシアは思う。
「でもね《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんはいっつもだれかとお話してたのに、アイさんは返事は良いんだけど、いっつも寡黙に練習してるもんだから、みんな心配してたんだよ。アイさんみたいな静かに練習している娘の方が普通だとは思うけど、先輩が先輩だったから心配になっちゃって、ついついじーっと見ちゃうんだよ。多分色んな人がアイさんのことをジロジロと見てると思うけど、それは『がんばって!』って気持ちもいっぱい入っているから。それに両手袋(ペア)の娘がちょっとずつ成長していくのを見るのが、みんな楽しみなんだ。『がんばれ、がんばれ!』って思いながら」
すれ違う他の業種のゴンドラ乗員は、良くアイに声援を送ってくれる。そして声という形になったものの他にも、自分を見ている者が発する無形のままの声援も数多く存在するのだと。
「それにアイさんはアイさんなんだから、アイさんが灯里さんになる必要はないんじゃないかな? アイさんはアイさんなりの水先案内人(ウンディーネ)になれば良いんだし。そしてそのためにいっぱい時間がかかったとしても、みんな待ってくれるよ。《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんだって、この街(ネオ・ヴェネツィア)のみんなだって。アイさん寡黙だけれども、その静かで真っ直ぐなところ、アイさんの魅力だと思う。だからアイさんはもっともっと自分の魅力をのばしたら良いんじゃないかな?《天上の謳声(セイレーン)》さんみたいにクールビューティーを目指したら良いかも」
その彼女の提案にアイは思わず笑ってしまった。
「どうしたのアイさん?」
「い、いえ、あはは、すいません、あは」
いきなり吹き出したアイに「そんなに面白いこと言ったっけ?」と不思議になるアルティシア。彼女が「ぐー」とお腹の虫を鳴かせてしまった時も、顔色一つ変えなかったアイがいきなり笑いだしたら、不思議に思うのも当然だ。
(あの水の三大妖精の一人が超絶ドジっ娘だなんて、普通の人は知らないもんね)
アテナとは古くから親交させてもらっているアイには、月刊ウンディーネなどでは「クールビューティー」として紹介されているアテナの中身を知っているので、そんな風に格好良く紹介されてしまうと、失礼とは思いつつ、つい笑ってしまうのは仕方なかったのだ。天上のドジっ娘の裏通り名は本当に一部地域だけのものらしいのは、アテナ本人のみならず、水先案内業界全体からみても、胸を撫で下ろす事実だろうと思う。
「なんか元気が出ました、ありがとうございます」
アテナ・グローリーもかなり不器用な女の子だけど、自分も彼女に負けないくらいの不器用。でも不器用なら不器用なりに、まっしぐらにがんばるだけ。なんかそう思うと、ずっと強ばったままの肩の力が、すぅっと抜けていくのを感じた。
「うん良かった。これからもみんなに見られて大変だと思うけど、みんなに見られているってことは、みんなに見守られているってことでもあるからね」
「!」
少し笑って切り替えることができた気持ちの上に重ねられた、静かな言葉。
見られているという事と、見守られているという事。近いけれど遠い二つの言葉。そして後者にはいっぱいの優しさが含まれている。だからその言葉は、なんだか心に空いた隙間を優しく埋めてくれるようで。緊張を嬉しさに変えてくれる魔法の言葉。
「……あれ?」
その言葉が胸の奥に静かに混ざり合うのを感じた時、自分の手の甲にポトリと水滴が一滴(ひとしずく)落ちてきたのを感じた。頬に触れると、自分が涙を流しているのをアイは知った。
「……嬉しいのに、涙が」
拭っても拭っても涙が止まらない。湧き水のようにどんどん溢れてくる温かい涙。その温かさの元は、身体いっぱいに感じたみんなの優しさ。
「嬉しい時にも泣くのが、女の子という生き物だと思うよ」
アルティシアは手を伸ばすとアイの頭を優しく撫でた。
「私もあなたの心が落ち着くまで付き合うからさ、今は泣きたいだけ泣いたほうが良いよ」
アイの気持ちの、心の中の変化を感じたアルティシアがそう促す。
「うん」
それからアイはアルティシアに胸を貸してもらって、一体どれだけ涙を流したのか自分でも判らないくらい、泣いた。
騎士たるもの如何なる時も涙を見せてはならず……だけど、今だけは良いよね、騎士さま。