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ARIA The NextGeneration 第九節


「はい、ご予約ですね。その日ですと、朝九時からのクルーズと午後三時からのクルーズが空いておりますが……はい、三時からのクルーズですね。はい、ありがとうございます。乗船指定は……はい、ARIAカンパニー前の桟橋で、ありがとうございます。それでは、その日の三時にお待ちしております。ご予約ありがとうございました」
 アイは相手が通話を終了させたのを確認すると、受話器を電話に戻した。
「灯里さんは、来月も予約いっぱいだねー、アリア社長」
「ぷいにゅ」
 予約ノートに新たな予約記録をアイが書き込むのを、横からアリア社長が覗く。所々空白の部分もあるが、それでもやっぱり灯里の日程表には、ほぼ毎日のように予約客の情報が書き込まれていた。
「アリア社長、わたしの顔も見てもらって良い?」
 ノートを覗き込んでいるアリア社長に今度は自分の顔を覗き込んでもらう。アイの顔を見た彼は「ぷいにゅ」と腕組みしながら首を左右に振るのだった。
「う〜、まだ真っ赤か」
 自分でも目の下辺りをぷにぷにと触ってみると、寝起きのように腫れぼったいのが判る。
 四時半くらいにARIAカンパニーに帰ってきたアイは、夕飯の準備などをしつつ五時になると同時に、カウンターの席に着き、何時でも電話が取れる体制をとった。
 ARIAカンパニー所属の片手袋(シングル)と両手袋(ペア)は、ゴンドラ操船などの外に出ての練習は夕方五時までと定められている。五時までに帰社しナイトクルーズの予定がある場合は、クルーズに出る手袋無(プリマ)と乗客をお見送りした後、ARIAカンパニーに残り電話予約を受ける。それがARIAカンパニーの両手袋(ペア)に唯一任されている社員としての仕事だ。
 ARIAカンパニーにおける招客はグランマの時代から続く、電話による予約と水先案内人(ウンディーネ)がゴンドラ乗り場に出向いての直接交渉のみ。電話予約に関しては五時から七時の二時間が社員の常駐する時間に割り当てられており、その詳細情報はネオ・ヴェネツィア水先案内店総合サイトのARIAカンパニーの項目にも記載されている。他の会社が導入しているようなメールでの予約受け付けは行われていない。
 そう、ARIAカンパニー所属の水先案内人(ウンディーネ)の予約を確実に行うには、電話番が存在する夕方五時からARIAカンパニー終業の七時までの短い時間しかないのだ。
 メールでの受付や自社サイトを公開しての予約ホームの設置など、他の小規模店舗でも行われている積極的に集客力を向上させる行為は、ARIAカンパニーでは取り入れられていない。単純に従業員数の問題もあるが、お客さま一人一人に対する心を込めた接客を最優先しているので、会社の運営方針として大量の集客は望まない。しかし少数での心遣いの行き届く接客のために創設された会社である為に、少数ゆえの広範囲な対応が出来ないという弱点が存在するのも仕方ない。
 そんな問題を抱えつつもARIAカンパニーは創業当時のやり方のまま進んで行く。多分オレンジ・ぷらねっとのような合理主義は永久に取り入れられることはないのだろう。そんなアナログな部分もARIAカンパニーの魅力の一つなのだから。
 ちなみに電話予約は一応ARIAカンパニーが営業時間内であれば何時でも受け付けてはいるのだが、手袋無(プリマ)は仕事に出ているし見習いは練習に出ているので、普通は繋がらない。その予約時間帯を知らないで無人のARIAカンパニーに電話してくる客も絶えないが、たまたま水先案内人(ウンディーネ)が在社していて予約を取れてしまう場合もある。そして奇跡的に電話が繋がり、奇跡的にゴンドラに乗せてもらう事ができたのが、初めて《AQUA》に訪れた時の、小さい頃のアイだったりもする。
「でも……あの時の失敗が、今私がこうしてここにいる理由なんだもんな……」
 今、思い出しても恥ずかしい記憶。いくら当時の自分が無知で無力な子供という存在であったとしても、あんなにツンツンしなくても良かったんじゃないか? と、今でも反省する。もし、あの時出逢ったのが灯里でなかったのなら、自分は《ARQA》嫌いのまま、今頃は地球(マンホーム)の何処かの会社に就職していて、代わり映えのしない平坦な人生を送っているのだろうなと思う。
 そんな意味では灯里がたまに口にする「《AQUA》は奇跡でできている」という言葉は、本当なんだなとアイも思う。恥ずかしい台詞でも何でもない、真実の言葉として。
 そんな、アイに《AUQA(此処)》にいる理由を作ってくれたARIAカンパニー所属の唯一の手袋無水先案内人(プリマウンディーネ)である灯里は、三時から五時の四ブロック目の予約客も通常のゴンドラ乗り場からの乗船指定だったので、十一時から一時の2ブロック目のクルーズに出た時からARIAカンパニーには帰って来ていない。ちなみに本日のナイトクルーズは無し。
 そんな事情なので、泣き腫らした顔をアイはまだ灯里に見られていなかった。
「そろそろ、ひいたと思うんだけどなー?」
 ポケットから小さい鏡を取り出して、自分の顔を自分で見てみる。水先案内人(ウンディーネ)は見られる仕事なので、身だしなみなどのチェックの為に、ほぼ全ての者が小型の鏡の一つは携帯している。以前のアイは歳も若かったのでARIAカンパニーに入社するまでは化粧直しの鏡など持ち歩く概念すら無かったが、《AQUA》で暮らすことになって灯里と生活必需品を買いに行った時に「必要になるから」と彼女からプレゼントされたものを今でも大事に使っている。その鏡で改めて確認すると、瞼も目の下も寝起きのように腫れぼったく、紅い。
「う〜ん、これじゃやっぱり大泣きしたの灯里さんにバレちゃうだろうな」
 こんな顔を見られてしまったら、灯里にもの凄く心配されてしまうのは間違いない。それだけは避けたい。断じて避けたい。
 灯里には極力心配を懸けたくない。まだまだ半人前にすらなれていない自分が、これ以上迷惑かけたくない。騎士たるもの、主君に対して弱々しい姿など、一時なりとも見せてはならず。
そういう事情なので、帰社直後の最高潮にズタボロだった顔を見られていないのは良かったとアイが思っていると――
「たっだいまぁーっ」
 上端が丸く造形された特徴的なデザインのドアが開かれ、元気の良い帰宅の挨拶が室内にこだました。本日はナイトクルーズの無い灯里が、夕方五時で本日の仕事を終了し帰ってきたのだ。
「う、うわぁ!?」
 鼓膜の振動により内耳に伝えてきた灯里の声が、今まで想像していた人物が突然自分の思考内で実体化したような感覚を与え、アイは思わず声を上げてしまった。
「は、はひ!?」
 そして脅かすつもりも無いのに相手が驚いた声を上げれば、灯里が驚くのも無理は無い。
「わぁごめんなさいっ、お帰りなさい灯里さんっ」
「う、うん、ただいま〜……なんか驚かせちゃった?」
「なんでもないです! だいじょぶです!」
 灯里からは見えない角度で、アイがもう一度鏡を覗き見た。だいぶ引いて来たとは言え、やはり見られたくないレベルではある。
「あ、灯里さん……電話番、お願いしても……良いですか?」
 アイは咄嗟に、半ば自動的にそう口にしていた。
「あ、うん、良いけど――どうしたの、アイちゃん?」
「あ、あの、ご飯の用意しますから……お願いしますぅっ!」
 アイはそう言い残すと、ぴゅーっとキッチンの方にすっ飛んで行ってしまった。
 普段は灯里に頼みごとなどしないアイがそんなお願い事をしてしまえば、不振を助長させてしまうようなものなのだが、とにかく灯里の傍から離れることが最優先であるので仕方ない。逃げ出すなんて騎士にあるまじき行為だなと思いつつキッチンに逃げ込む。
「え、えーとー」
 何がなにやら判らないまま残された灯里は、同じように取り残されたアリア社長の待つカウンターの席に腰かけた。判らないなりに、ちゃんとアイの代わりに電話番に着くところがやっぱり灯里らしい。ぺらっと予約ノートを捲ってみる。
「うわぁ、私来月もお仕事いっぱいですねARIA社長ー」
「ぷいにゅ」

「今日のパエリアも美味しいね」
 鮮やかな色の炊き込み御飯に舌鼓を打つ灯里の斜め向いの席では、自分専用の皿に山盛りに盛ってもらったパエリアを、アリア社長が「ぷいにゅ、ぷいにゅ」と美味しそうに頬張っている。
「そうですか、ありがとうございます」
 そんな幸せそうな二人の顔を見ていると、作った方もそれだけで満足だなとアイは思う。
 本日の夕食の献立は、旧スペイン・バレンシアの代表的煮込み料理。ARIAカンパニーにアイが就職してからは、夕食は殆ど毎日アイが、灯里と自分の二人分を作っている(もちろんアリア社長の分も)。
 これは水先案内人(ウンディーネ)としての業務がほぼできない自分が、何とか灯里の役に立とうとやっていることなのだが、最初の内は味加減が上手く判らなくて失敗ばかりだった。とにかく水先案内人(ウンディーネ)として就職できる年齢になるまでひたすらにオール漕ぎの練習ばかりしていたので、アイは料理の方もさっぱりなのだった。
 それでも凄まじくしょっぱいアランチーノライス コロッケなどを出しても顔色一つ変えずに「美味しい美味しい」と食べてくれていた灯里とアリア社長のおかげでちゃんと習熟し、今では普通に美味しいご飯を毎回作れるようになっている。何でも練習しまくれば上達するのは、料理もオール裁きも同じだ。
 ちなみにパエリアは彼女が得意になった料理の一つなのだが、基本的に夕食は予約の電話番をしながら作るので、手を離していられる時間が取れる煮込み形の料理が多くなってしまうのは仕方ないようだ。他には肉じゃがやポトフなどが得意料理。このようなラインナップになっているもう一つの理由として「どんなヘタクソでも、新鮮な具材を長時間煮込んでいれば誰だって美味しいものを作れるのよ」と、一回料理指導を賜った《薔薇の情報(ローゼンクイーン)》殿の格言によるところも大きいようである。
 ただパエリアはどうしても大鍋で大量に作らないと美味しくできないので、女二人と火星猫一匹の食事ではいつも余ってしまう。アイも灯里も普通の女の子よりは食べるとしても、やはり多い。アイが夜食に食べたり灯里がお土産に持って帰ったりと、何とかして毎回作った分は食べ切っている。
 しかし本日はそんなことを心配する必要は無いくらいの勢いで、アイが自分の作ったパエリアをぱくぱくと凄い勢いで食べていた。
「アイちゃん、今日はすっごい食欲だね〜」
「ぅぐ……はい、早く体力をつけないと……もぐもぐ、何時までたっても両手袋(ペア)のままですから、もぐ」
 灯里の感想に、アイがパエリアを咀嚼しながらちょっと行儀悪く答えた。
 事実、今のアイはお腹が減っていた。普段は少し多めに食べている昼食もアルティシアにあげてしまったし、彼女の家で出されたクッキーも胸がいっぱいで殆ど食べれなかった。そして自分の胸があんなにもいっぱいになった理由――涙が枯れるまで泣いたおかげか気持ちがさっぱりして、ついでに身体もさっぱりしたようで凄くお腹が空いていたのだ。アイが今日の夕食にパエリアという大皿料理を選んだのも、自分の得意料理の他にそんな理由があったのかも知れない。
(それにしてもわたしの目の赤いとこ、見られないで良かったな)
 アイは灯里に電話番を任せてキッチンに引き篭ったあと、パエリアの様子を見ながら必至に水道の蛇口で目の周りを洗っていた。こんな事でどうにかなるのかと自分でも疑問に思ったが、アイの気持ちが自分の身体に通じたのか、炊き上がったパエリアに紙を敷き蒸らして熱を引かす頃には、顔の腫れも引いていた。
 そんな安心感もアイの食欲を増進させていたに違いない。
「そういえばアイちゃん」
「はい?」
「今日、泣きながらゴンドラ動かしてたんだってね?」
「ぶぅっ!?」
 そんな安心し切っていたアイのふところに、いきなりの大直球が撃ち込まれた。小手先の裏技一切無し真っ向ストレートに対処できる筈も無く、口に含んだパエリアをギャグマンガのようにアイは噴出してしまった。
「きゃー! ごめんさなさいっ灯里さんっ!?」
 テーブル上の惨事を引き起こした本人の方がパニックになり、思わず悲鳴を上げてしまうアイ。
「いや『ARIAカンパニー(あなたのところ)の見習いの娘が泣き腫らした顔でゴンドラ漕いでたから、なにかあったの?』って、色んな人が私に心配だって言ってきてくれてたから」
 アイの悲鳴もその粗相も予想の範囲内だったのか、灯里は冷静にテーブルの上を掃除して片付ける。
「……は!?」
 そう、例え灯里にバレなくても、街のみんなにはバレバレだったのだ! 逃れるようにキッチンに隠れたり、料理をしながら一生懸命目元を冷やしたりした、灯里に心配をかけないようにと行った多大なる苦労は一体なんだったのか?
(……でも、そうだよね、いっくら灯里さんには見られなかったとしても、街のみんなには見られてるはずだもんね)
 噛み締めるように、アイが心の中で呟く。必死で隠そうとしていた自分の涙が、既に相手に知られてしまっていたという事実。その事に残念さを感じるが、不思議と悔恨を感じることは無かった。
 街の人の目。それによって手袋無(プリマ)に伝えられた後輩の涙。しかも見られていたのは泣き止んだ直後の最高に紅く腫れ上がっていた時の顔。
 昨日までのアイだったならばその事実を知った時、嫌悪を催すほどの強烈なプレッシャーを感じただろうが、今のアイはその重圧をほとんど感じることが無かった。
「でも、みんな一緒のこと言ってたんだよね。泣き腫らした顔なのになんだか幸せそうだったって」
 再びテーブルに着いた灯里が、アイに顔を近づけるようにして訊いた。
 みんなから見られているのではなく、みんなから見守られているというアルティシアから教えてもらった事実。そしてそれが、みんなを心配させてしまった理由。
「心配してくれてたんですね……みなさん」
 泣いた直後のアイの酷い顔を見て、みんなは心から心配してくれていたのだと思う。そして泣き顔の奥にある、幸福な気持ちも勿論バレていたのだった。
「灯里さん、今日お友達ができたんです」
 だからアイは、本日あった嬉しい出来事を、ありのまま先輩に伝えた。
「そっか――アルティシアちゃんとお友達になったんだね」
「はい」
「私の時もそうだったけど、アイちゃんってお友達を作るときはすっごく積極的だよね」
「わ、わ、わ、わっ、あ、灯里さんっ、そ、その話は、もうやめてくださいっ」
 昔のことを思い出さされて、アイの顔がボフンっと蒸気を吹き上げそうな勢いで紅くなる。初めて《AQUA》にやって来た時のツンツンしていたアイは「お友達」という言葉を、乗客を乗せてはいけない片手袋(シングル)のゴンドラに乗船するための都合の良い方便として使ってしまった。しかしその時の灯里はまったく面識のないアイに対して、親身になって心配してくれ、最後には本当のお友達になり、今はこうして自分は彼女の後輩をやっている。
 そんな思い出すだけで恥ずかしい出逢いの記憶を蘇えさせられては、声も裏返ってしまうのは仕方ない生理現象だ。
「でも、思い出してみるとあの時のアイちゃんって可愛いかったなぁ〜、クールなアイちゃんはちょこっとツンとすましてる方が似合ってるのかな?」
「もぉ〜、やめてくださいよ〜」
 恥ずかしくて隠れるようにずるずるとテーブル下に身体が沈んでいくアイ。
「でも……あの時はって……今は可愛いくないってことですか?」
 もうこれ以上二人の出逢いの話は止めてもらいたいので、ほんのちょっと反撃に出るアイ。テーブルの端から目より上だけ出した姿勢で、仔猫のようにうるうると灯里を見つめている。
「今のアイちゃんは『可愛い』って言うより『綺麗』、でしょ?」
 ごつん!
 破裂寸前まで大きくなっていた恥ずかしさがその言葉で一気に暴発したアイは、思いっきりテーブルの縁におでこをぶつけると、そのままバタリと倒れた。やはりこの女性(ひと)はただの水先案内人(ウンディーネ)ではないと思考の片隅で改めて認識しながら床に沈む。
(……そう、綺麗になったよね、アイちゃん)
 空席になった椅子を見つめながら、自分の前に意外な成長した姿を見せている後輩を思った。朝見た彼女の顔に比べて、今のアイの顔はお世辞抜きに非常に凛々しい。女の子は泣いた数だけ強く綺麗になれると言うけれど、彼女は次のステップに進めるだけの強さを、その涙と共に持ち得たのだろうか?
(うん、今のアイちゃんなら……大丈夫、だね)
 多分彼女は限界まで涙を流したのだろう。それは意図したことではないだろうけど、彼女を抑えていた枷まで綺麗さっぱり洗い流してくれているようだ。彼女は強くなった。そして今以上に強くなれる可能性を、綺麗になった彼女の姿が物語っている。
「ねぇ、アイちゃん、良いかな?」
 相手の身体の自由を、自分が発した恥ずかしい台詞で奪ったなどと露とも知らないように、何の気なしに灯里がアイを呼んだ。
「はい?」
 紅いままのおでこをしたアイが、テーブルの下から這い出すと再び自分の席に着いた。
「明日の午後からのお客さん、いるでしょ?」
「はい? ……ああ、3ブロック目のお客様ですか?」
 何の脈略も無いように話が変わってしまったのでアイも最初は戸惑ったが、灯里の仕事の予定は本人以上に心得ているつもりなので、ほぼ身体が自動的に即答した。
「確か女性のお客様お一人ですよね」
「うん、でね、その人、妊婦の人なの」
「え!? そうなんですか?」
 灯里の仕事の予定は何から何まで押さえている筈の自分が、まったく知らない情報があるとは!?
 アイが予約を受けずとも、灯里がたまたま電話を受けたり、ゴンドラ乗り場で翌日以降の予約を直接受けたりもするので、アイの知らない乗客の情報があってもおかしくは無いのだが、それでも自分の知らない事があるのは素直に驚きであり素直に悔しいものだ。
「だったら補助員、いりますね?」
 妊婦や身体の不自由なお年寄りがゴンドラ乗船を希望する場合、オールを漕ぐメインの水先案内人(ウンディーネ)の他に片手袋(シングル)以上の水先案内人(ウンディーネ)が同行する。例えそれがたった一人の乗客だとしても、緊急時には即座に対応しなければならない対象であるからだ。
「じゃあまた姫屋のカンナレージョ支店に応援を頼みますか?」
 しかし手袋無(プリマ)と両手袋(ペア)の二名しか水先案内人(ウンディーネ)が在籍していない現状のARIAカンパニーでは、本来はそのような乗客を乗せてのゴンドラ運行はできない。見習い扱いの両手袋(ペア)には補助員の資格が無いからだ。ではこの場合どうするのかというと、提携関係にある会社の片手袋(シングル)を「社外出向研修」という名目で借り受ける。ARIAカンパニーは基本的には姫屋の派生店であるので古くからこのような申し出には喜んで協力してくれており、灯里の時代では藍華が支店長を務めるカンナレージョ支店が一手に引き受けてくれている。ちなみに借りたものはちゃんと返さなければ成らないのは礼儀であるので、灯里は「いつでも私のこと姫屋の補助員で呼んでね〜」と言っているのだが、藍華がそれを実行することは無いだろう。
「うん、だからまた姫屋カンナレージョ支店(藍華ちゃんのところ)からお一人片手袋(シングル)を借りようと思ってたんだけどね……最初は」
灯里の言葉尻に疑問を持ったアイが「最初は?」と尋ねようと出しかけた台詞が
「アイちゃん、今からピクニックに行こう!」
 という、灯里の言葉に遮られた。
「は……はい!?」
 ピクニック? ピクニックっていうとあれですか、麗らかな日差しの下お弁当を持って、心地好い風に後押しされて、遠くの目的地まで楽しく歩いていくあれですか?
「今からですか!?」
 しかし今は、ARIAカンパニーも店仕舞いして夕食を食べている時間。もうすぐ九時という夜の真っ只中。
「うん、ちょっと仮眠するけどね」
 しかし灯里はこんな夜更けに行く気漫々らしい。しかも出発予定は更に深夜の様子。
「ど、どこへですか?」
 とりあえず恐る恐る目的地を聞いてみるアイ。
「風車の丘よ」
「ふうしゃのおか!?」
 しかも彼女が告げた行き先はとんでもない場所だった。そこはネオ・ヴェネツィアの存在する島の中では最も高い場所の名前。最も高い場所ということはそれだけ遠い場所だということ。徒歩で行くなら半日は掛かってしまうだろうし、ゴンドラに乗ってもその半分くらいは掛かる。そしてなによりも
「でもあそこに行くには途中に水上エレベーターもありますし、あそこのおじさんこんな真夜中まで起きてないですよ!?」
 風車の丘は非常に高所である為に、運河の高低さを乗り越える目的で、注水による水の増減を利用した水上エレベーターがその行く手の途中に設置されている。そしてその稼動にはオペレーターが必要であり、もちろんそんな夜中までは仕事に就いていない。だからその場所はこの時間では行くことが不可能な筈なのだが
「大丈夫、事情を話せばちゃんと動かしてくれるよ」
 事情。ただピクニックに行きたいという理由――事情だけで、オペレーターを叩き起こして、あんな巨大な機械を動かしてもらえるものだろうか?
 しかしこんな夜更けに行ける筈の無い場所へのピクニックを提案した灯里は、そんな問題は気にする様子も無く「アイちゃん、この残ったパエリア、ライスボールにしてお弁当にしちゃうね」と、アリア社長と共に夕食を片付け始めていた。
「あ、あの……ホントに行くんですか?」
「うん、行くよ。出発予定は夜の一時」
 アイの心配を気にするでもなく灯里はどんどんピクニックの用意をしていく。
「こんな夜中に行くのは大変だけれど、私はアイちゃんを信じているから」
「……え?」
 大変? 信じる? それはどういう意味?
「アイちゃんは騎士さまだよね?」
 しかしアイがその意味を頭の中で噛み砕いて理解しようとする前に、次の言葉が重ねられた。それは一人の少女を此処まで引っ張ってきた覚悟の言葉。
 覚悟の言葉――騎士という言葉にアイの身体が力強く反応する。
「は、はいっ、わたしは灯里さんを守るために《地球(マンホーム)》からやって来た騎士です!」
 まだ見習いですけど――アイは心の中で小さく付け加えた。
「騎士さまなら多少は無理もできるよね?」
「はい! 姫のためならたとえ火の中水の中です!」
「じゃあ、私を希望の丘まで連れってくれるかな、騎士さま」
 希望の丘――一瞬そう聞こえた。灯里が言い間違えたのか自分が聞き間違えたのか判らないが、アイには風車の丘という言葉が、そう聞こえたような気がした。
 希望。その言葉が、何だか判らないまま進んでいた話しに身を任せっきりだったアイに、真の覚悟を決めさせた。騎士たるものは姫のために命を懸けるもの。ならば今がその時なのだろう。
「はい! がんばります!」


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