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ARIA The NextGeneration 第十節


「……あれ? 灯里さん……」
 アイが目を覚ますと、既に灯里は起きていて、ベッドの脇のライトを点けて本を読んでいた。
「はー、面白かった」
 アイが目覚めるのと同時に灯里も読み終わったようで、パタンと背表紙を閉じた。
「おはようございます、灯里さん」
「うん、おはようアイちゃん。ごめん、起こしちゃった?」
「いいえ、そういうわけじゃ……うわぁっ、ごめんなさい!?」
 アイはそこで始めて、自分が上体を起こしている灯里の腰に抱きつく格好になっていることに気づいた。寝ている時に意識の無いままそんなことになっていたらしい。アイは急いで灯里の身体から手を解くと彼女と同じように上体を起こして、ベッドの中で隣りに並んだ。布団の端の方を見るとアリア社長が「ぐーぐー」と出っ張ったお腹を上に突き出してまだ眠っている。
 突然の風車の丘へのピクニックが決まって、自宅に帰る時間が無くなった灯里は久しぶりにARIAカンパニーに泊まることになった。
 二人とも風呂を済ませ、灯里にベッドで寝てもらうことにして、アイが下宿部屋の床に自分用の布団を敷いていると「一緒に寝よっか?」と、灯里が言ってきた。アイもその提案を断る理由も無かったので、灯里の待つベッドに潜り込んだ。
「灯里さんと一緒に寝るなんて何年振りだろう?」と思っているうちに意識を失い、夢を見ることも無く困臥(こんが)していた。昨日は色々なことがあって相当疲れていたらしい。無意識の内に灯里の身体に抱きついていたのもその所為だろうと思う。しかし良く眠ったおかげで数時間の仮眠だけでも随分と疲れが取れていた。これなら風車の丘まで大丈夫だろう。
「あ、それは……」
 隣りに並んだアイが、灯里が読んでいた本の正体に気づいた。灯里の手の中にある分厚い本。それは、アイが何時も読んでいる騎士物語の本だった。
「ごめーん、アイちゃんの本、勝手に借りちゃった」
「い、いえ、良いんですけど」
 少し困ったような表情になるアイ。その困(こう)じた顔は、大切にしている本を勝手に読まれたということではなく、歴(れっき)とした社会人になった自分が、子供の読むような本を枕下に大事に置いているという事実が知られてしまった方が大きい。だったら隠しておけば良かったんじゃないか? と思われるが、そんな風に隠蔽してしまうのは自分を此処まで引っ張ってきてくれた騎士様に対して申し訳ないような気がしたので、普段のままにしておいたのだ。
「すっごく面白かったんで、一気に読んじゃったよこの本。でも最後の結末がちょっと悲しい終わり方なんだね」
 大魔王を倒し、姫を救出してきた騎士は、少年の発した何気ない一言「大魔王より強くなった騎士さまが怒ったら、誰が止めるの?」という言葉を受けて、凱旋直後に人々の前から姿を消してしまう。そして物語にはまだ続きがあり、その後は助け出された姫が一心不乱に剣の修行をするシーンになる。一ヵ月後、剣士として強くなった姫は弟王子に跡を任せ再び姿を消してしまう。みんなの前からいなくなってしまった騎士の後を追って旅に出てしまったのだ。物語はその姫の旅立ちのシーンで終了する。
「このお姫さまって、騎士さまと逢えたのかな?」
 この騎士物語には最期に騎士と姫が再会できたかどうかは表記されていない。それはこの物語を読んだ者が誰しも一度は疑問に思うことなのだが
「灯里さん、裏表紙見て下さい」
「え? 裏?」
 アイの言葉を聞いて、灯里が閉じたばかりの裏表紙に再び目を落とす。それは森の中に建つ小さな丸太小屋のキッチンの窓から室内を覗いている描写のイラスト。手前では奥さんらしき女性が包丁を手に料理を作っていて、奥のテーブルには旦那さんらしき男性が座って、二人で楽しげに会話をしている。
「その旦那さん、騎士さまの挿し絵に似てると思いませんか? そして奥さんはお姫さまに似ていると、思いませんか?」
「え? ……えぇ!?」
 慌てて中のページを再び捲ってみる灯里。確かにアイの言う通り、中の挿絵に描かれている騎士と姫の姿と、裏表紙の夫婦の姿はどことなく似ている。
「うわぁっ、お姫さまちゃんと騎士さまのところにたどり着けたんだね! しかも二人は結婚してるんだね!」
「この裏表紙の二人が、騎士さまとお姫さまだっていう説明はどこにもありませんけどね。でもそう思うほうが、なんだか良いじゃないですか」
 最後まで作品を読み通して、そして再び裏表紙を見た者にだけ用意された解答。姫は姿を消してしまった騎士の下に無事辿り着き、誰も知らない森の中でひっそりと二人っきりで暮らし始めた。たった一枚のイラストに込められた、ほんのちょっぴり切ない、小さな幸せ。それは騎士と共にこの作品を旅してきてくれた少年少女たちに向けての、作者からのプレゼントなのだろう。
「そっか、良かった安心した」
 心底ほっとしたような顔をして、灯里がアイの方を見る。
「ちゃんとハッピーエンドなんだね。自己犠牲精神で自分の命すら厭わない最後じゃなくて、安心したよ」
 灯里の言葉。それはこの作品の感想ではなく、もっと大きな、何かを含む言葉であるような感じを、アイは受けた。
 一体それはなんなのだろうとアイが思っていると、灯里が彼女の手を取った。
「ちょっと、手を見せて」
 アイの掌を返す。指の付け根にできた、練習の証。
「左手のタコ、また切れちゃったんだ」
 左手の中指の付け根に真新しい傷ができているのを、灯里が見とめた。
「まだまだ練習不足ですから」
「ううん、そんなことないよ。ちゃんと傷がふさがって血が止まっているのは、手に負担の掛からない漕ぎかたが出来かけている証拠だよ」
 灯里がそう言いながらアイの手を優しく握る。先輩の手から伝わってくる柔らかい温かさ。
「さて、出発の準備をしましょうか」

「じゃあ行きは、アイちゃんにお願いね」
 そう言うと灯里は、桟橋に用意された黒いゴンドラに先に乗り込み、前部座席に座った。ゴンドラには夜間航行用のカンテラが、前のペッティーノに吊るされている。アリア社長が灯里に続き、隣りに座る。
「あれ? 後向きに乗るんですか?」
 二人と一匹分の食事が入ったバスケットを積み込みながら、アイが訊いた。夜とは言えせっかくのクルーズ、流れる景色を楽しみながら乗るほうが良いのでは無いのか?
「アイちゃんと二人っきりで乗る機会もあんまり無かったから、良い機会だからアイちゃんの漕ぐ姿をじっくり見ておこうと思って」
「そ、そんな、恥ずかしいですよぉ〜」
「でも、後輩のオール裁きをチェックするのも水先案内人(ウンディーネ)の務めだから」
「う〜、それは、そうですけどぉ」
 灯里の言葉に、手にしたオールに隠れるように縮こまってしまうアイ。
「じゃ、じゃあ、出発します、よ」
 ちょっと恥ずかしそうにオールをファルコラにかけると、アイはひと掻きさせた。黒いゴンドラが漣を立てて静かに進み出す。不快な揺れは殆ど無い。その恥ずかしがってる姿とは対照的な、見事な滑り出し。
「あの、どんな風にゴンドラ、進ませれば良いですか?」
 この時間、船舶の姿は輸送用の大型船の他はほとんど水上にない。だから普段のように他のゴンドラの動きを気にして、異常に低速になってしまわなくても良いのである。
「今はピクニックに行くだけだから、アイちゃんの進ませたいようにゴンドラを進ませれば良いよ。何時間かかっても構わないから風車の丘に着いてみて」
 灯里の解答。ダイナミックに進むのもスタティックに進むのも、アイの自由にしなさいと言う。
「じゃあ、自分のペースで進んでみます」
 目的地、風車の丘。風力発電用の風車が並ぶ、ネオ・ヴェネツィアで一番高い場所。まず街外れの水路まで行き、其処から丘陵地帯に敷設された水路を延々と進んでいかないと辿り着けない。風車の丘も観光地の一つとはなっているが、余りにも遠いため水先案内人(ウンディーネ)をほぼ丸一日貸し切ってしまわないと目的地に着けないので、何度かネオ・ヴェネツィアに訪れた者が頼む、通好みのクルーズになっている。
もちろんアイも行くのは始めてだ。地図で場所と距離は判るが、実際に体験してみない事にはどれだけ時間がかかるのか本当には判らない。ペース配分を間違えてしまえば、途中で力尽きて辿り着けないかも知れない。
 だからARIAカンパニーから水路に入るまでのネオ・アドレア海を抜けるコースは、緊張しないで楽に動かせる何時もの力動的な漕ぎ方で進んだ。
「なんだか、ARIAカンパニーから逃げてるみたいだね」
「はい?」
「もしあの騎士物語に従うなら、ARIAカンパニーの建物は大魔王のお城になるのかなーって思って」
 アイの躍動感溢れる操方に気持ち良く揺られながら、灯里がそう称した。騎士のような彼女の姿に、乗馬のようなゴンドラ操船。闇夜を翔けるゴンドラは、本当に姫を助け出した騎馬が進む姿のようだ。
「じゃあ、大魔王さまはいったい誰になるんですかね?」
 静かな海原を高速で進んで行くアイが、助け出した姫役である灯里に尋ねた。
「そうだねぇ――アリシアさんにでもやってもらおうかナ?」
「あはははは、なんだか似合いそうですね」
 黒い禍々しい衣装を着てあの子悪魔スマイルをしているアリシアの姿は、何だか妙に似合っている気がする。
「じゃあ、水路に入ります」
 アイは灯里に一声かけると、ネオ・ヴェネツィアの狭い水路にゴンドラを乗り入れた。風車の丘へ続く水路は街外れにあるが、そうだと言ってネオ・ヴェネツィアの外周を進んでいては到着がかなり遅れてしまう。いくら広い場所では早く進めるアイのゴンドラであっても限界はある。
「ゴンドラ通りまーす」
 昼間より少し声のトーンを落として艇体を旋回させる。それに合わせるように粛々と進むゴンドラ。狭い水路に進入した途端、今まで動的に動いていたアイのオールが、静的な取り回しになる。
 最初は猫にも抜かされる何時も通りの酷い低速のまましばらく進んでいたが、アイは昼間に教えてもらった操方を試そうと、思い切ってオールを操る手に力を込めた。灯里が自分の進ませたいようにゴンドラを進ませれば良いと言ってくれているのだから、試したいことは全部試さなくてはもったいない。それに悪いところがあれば灯里にすぐ指摘してもらえるのだから、折角の機会を逃す手は無い。
(こんな感じ……かな)
 昨日の昼にアルティシアに教えてもらった操船方法を思い出しながら、アイはオールを漕ぐ。不用意に大振りになりそうな時は、アルティシアの腕の感触を思い出して、幻想の彼女の腕に余分な力を吸収してもらうように、最適な位置で腕を止める。
 慣熟していない腕の動きで艇体が不安定な挙動を起こしてしまうが、身体が慣れてくるに連れ、それも収まりつつある。アルティシアの花屋からARIAカンパニーに帰る時にも一度練習しているので、その時の経験も役に立った。夕陽を浴びるアリア社長の乗ったボールは最初は何時もと変わらずゴロゴロと船底を滑っていたが、黄昏色に包まれたARIAカンパニーに到着する頃にはそれも減ってきていたのだった。泣き腫らしてぼろぼろの顔であっても練習を怠らないのは、彼女らしい生真面目さだ。
 アイはゴンドラの乗り手としての練習を、今までに充分以上重ねてきている。それに即して基本的な操船技術は彼女の中に備わっている。だから、ちょっとしたコツが掴めれば、狭い水路での操船も大丈夫な筈なのだ。
 アイは途中途中、惰性でゴンドラを進ませながらオールの柄を脇に挟むようにして、自分の腕で自分の身体を抱きしめるような仕草をした。あの感触を忘れてしまわないように。
 そしてアイがそんな風にしていると、前に座る灯里と目が合うことがある。しかしアイのそんな不思議な行為を見ても、灯里はただ優しく微笑んでいるだけだった。アイの操船を邪魔しないようにと、柔らかく見守るだけのように。
 薄暗い水路の向こうに、また曲がり角が見えてくる。ペッティーニに吊るされたカンテラの灯りと星明りだけでは良く見えないが、アイは曲がるべき位置でゴンドラの舳先を旋回させると「ゴンドラ通りまーす」と小声で注意を促し、新たな水路に進んで行く。彼女は何度も何度もこのネオ・ヴェネツィアの狭い水路を漕いでいる。だから今では、建物と建物の距離の間や、自分の動かすゴンドラの全長と進む先の水路の容積の関係などを、ほぼ全ての曲がり角や十字路で把握している。
 アイの今までのゴンドラ操船は確かに遅かった。しかしそれは安全を最優先に考慮した結果から生まれた、本当に弱きを助ける騎士道精神にのっとったものだ。そして逆にそれだけの注意力があったからこそ、今まではあんなにも低速だったのだろう。
 しばらくすると狭い水路を抜けた。その先にはネオ・ヴェネツィアの動脈である大運河。そして運河に出て間もなく高い波に艇体が揺れた。左舷の方から輸送船が向かってきている。小さなゴンドラなど、その波飛沫で転覆させられそうな程の巨船。しかしアイは臆することなく、その場に一端ゴンドラを停船させ、艇体を安定させる為に小刻みにオールを振るった。
 輸送船の巻き起こす余波を打ち消すように、滑らかにオールが舞う。水圧による上下動はどうしようもないが、不快な揺れは殆ど出ない。流石アイの操船だ。広い場所では本当に自分の手足のようにゴンドラを動かせている。大海での操船技術だけならば水先案内人(ウンディーネ)一の技量があるのではないかと、お世辞抜きに灯里は思う。
「アイちゃん、今日はずいぶんとスイスイ進んでいるよね」
 狭い水路も広い運河も何の問題も無いようにクリアしていくアイのゴンドラ操船を見て、灯里が素直に感想を洩らす。
「だって灯里さん、明日は補助員の必要なお客さまの予定が入ってるじゃないですか。急いで行って急いで帰って、早く灯里さんに休んでもらわないと」
 しかしアイは、違う理由で必死だった。
 突然こんな深夜に、風車の丘というとんでもなく遠い場所へ向かう事にどんな意図があるのか判らないが、今はその目的を達成するのが第一だとアイは考えていた。その為に今日まで培ってきた技術、そして昨日アルティシアに教えてもらった技術を実戦に試験投入してまで、自分の知りえる全てのゴンドラ操船術を使って、その目的を達しようとしている。
 別に彼女は、上手くゴンドラを動かそうとしていた訳ではなく、結果的にそうなっていただけなのだった。しかしそれが灯里の望んだ答えであることをアイは知らない。
 狭い水路の中ゴンドラを動かして数時間。何時ものアイだったら息切れし始めている筈だが、今の彼女にはそれが無い。アイは自分の知らない内に適切なオール捌きが出来始めていた。
「こんな夜中に遠いところまでピクニックに行く事自体は、疑問に思わなかった?」
 大運河を抜け、再び狭い水路に入ったアイに、灯里が尋ねた。
「確かに疑問には思いましたよ。でも灯里さん、片手袋(シングル)時代にアリア社長と二人でこっそりARIAカンパニー前で夜中のクルーズを楽しんでた話をしてくれてたじゃないですか。だからこれもその延長なのかなって――それに」
「それに?」
「騎士たるもの主君の命にはいかなる場合においても素直に従うべし、です」
 灯里はアイのその言葉に少し考えるような顔になると、再び口を開いた。
「アイちゃんは主君の言葉にはなんでも従うの?」
「それが騎士ですから」
「アイちゃんは、主君がお前の命を懸けろと言ったら、自分の命を捨てるの?」
 ドキリとする言葉が灯里の口から放たれた。昨日までのアイだったらその言葉を聞いて困ってしまって何も言えなくなっていただろう。しかし水先案内人(ウンディーネ)になって始めてできた友達の胸で枯れるまで涙を流した少女は、先輩の想像を超えるほどに強くなっていた。
「主君が命を捨てろと言うなら、それには確かな理由があるのだと思います。誰しも納得する確かな理由が。わたしが命を懸けることによってなにか大きなことが成し遂げられるのなら、わたしは喜んで命を懸けます。そしてわたしの主君は、従者の命を無駄に使うような愚か者では無いです」
 強くなった少女はそうキッパリと言い切った。セーラーカラーの制服に、長大なオール、黒いゴンドラ。少女は騎士の格好の類は何一つしていなかったが、少女は確かに騎士だった。
「私の可愛い騎士さまは、こんなにも格好良く成長したんだね」
 凛とした声でそう言ったアイの姿を見て「わたしARIAカンパニーに入ります!」と宣言した彼女の昔日を、灯里は思い出していた。騎士になると言った小さな女の子は、本当にそれを果たしたのだ。
「か、格好良いかは、わかりませんけど、せ、成長は、しましたよ? 背も伸びましたし」
 急に褒められて言葉が上ずりながら、アイはゴンドラを進ませる。水路の両壁の距離を測りながら、慎重に速度を落とす。ここを進み海に抜ければもうすぐ丘陵地帯につながる水路に行ける。だが、この水路の最奥部分には建物が複雑に密集しており、日中でも距離感を失うほどの暗さになる場所がある。それは数回程度此処を通った位ではどうにもならないほどの暗黒。しかも今は深夜。街路灯や室内から零れる灯りも期待できない時間帯。
 アイは一つ深呼吸をして、ゴンドラを静かに滑らせるように進ませると
「……?」
そんな真っ暗な筈の場所に、小さな灯りが灯っていた。
「……アリスさん」
 その灯りの正体は、カンテラを下げたアリス・キャロルだった。
「アリスさん、どうして?」
「散歩しているだけですよ」
「え? 散歩?」
 いくら狭いネオ・ヴェネツィアとは言え、アリスの定宿であるオレンジ・ぷらねっとの本社隣接の寮から此処までは相当な距離がある。ふらっと夜の散策に出て辿り着くような場所ではない。
 ゴンドラの前にぶら下がるのと同じような古風なデザインのカンテラを下げたアリスの姿は、わざわざ其処に予め立って先の見えない水路を明るく照らし出してくれているように見えた。そんな大航海時代の灯台守のようなアリスの前で、ゴンドラは一端停止した。
「そう、散歩です」
 しかしアリスは、後輩水先案内人(ウンディーネ)の考えに気づいたのか、あくまで「散歩」と言い張る。
「誰にもお知らせしてなかったのに」
 かつての練習仲間の姿を見て、灯里が何かを含んだ言葉を呟く。
「灯里先輩こそ、お昼にご飯を一緒に食べた時は、ピクニック行きの話は一つもしてなかったじゃないですか?」
「……だって、ついさっき決めたから」
「まぁ良いです。でも確かに《遥かなる蒼(アクアマリン)》が後輩を捕まえて『ピクニックに行こう』と、言ったのです。灯里先輩は他の人には心配懸けたくないと黙って二人っきりで行くつもりだったのでしょうけど、ちゃんと知るべき者の場所には情報は届いているのです。こんな夜中に水上エレベーター協会に電話したら、私たちくらいのところには普通バレますよ」
 アリスはそう言いながら、紙袋を灯里に手渡した。
「藍華先輩は明日の午前中の式典準備で来れませんでしたが、代わりにコレと伝言をたのまれました『どうせ途中のお弁当は夕飯の残り物で作ったんでしょうから、それだけじゃ足りないでしょ? だからコレをオヤツに食べなさい』だそうです」
 中を覗いてみると、ふかふかの胡桃パンが三つ入っていた。
「藍華ちゃん……ありがとう。アリスちゃんもこんな夜中に、ありがとう」
 両手袋(ペア)の水先案内人(ウンディーネ)が先輩手袋無(プリマ)を伴って風車の丘に行く。それがどんな事であるのか、片手袋(シングル)以上の水先案内人(ウンディーネ)は全員知っている。
 そしてこんな夜中にそれを実行しようとするARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)がいるという情報を聞きつけたアリスは、難所であろうこの場所にわざわざ灯りを灯すためにやってきたのだ。
「こんな夜中に希望の丘に行こうというのです。多少お手伝いしてもルール違反にはならないでしょう」
 灯里の顔にそっと口を近づけて小声で囁いた。
「アイさんは私と藍華さんにとっても可愛い後輩なのですから」
 アリスも、アイが只の《AQUA》好きの小さな女の子でしかなかった時代から彼女の姿を知っている。そして灯里と藍華という自分にとっての生涯の友人でありライバルである二人とは、アイの方が先に知り合いになっているのだ。そんな女の子が水先案内人(ウンディーネ)の試験に合格し、ARIAカンパニーの新人水先案内人(ウンディーネ)となった。
 そんな複雑な想いがアイの姿を見る瞳を考え深げにさせる。もしかしたら灯里と藍華の二人と出会った頃の、素直になれなかった自分とアイの姿を重ね合わせているのかもしれない。アイも最初は二人と素直に接してなかったと聞いている。
 時が経ち、子供から少女へと成長したアイが、過去に自分が通った道を再び進もうとしている。
 そして今、水先案内人(ウンディーネ)になるための試練の一つを乗り越えようとしている。トップ・プリマの一人となって自由時間が頻繁にさけなくなった自分だが、ARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)達が、こんな夜中に風車の丘に行こうとしているのだ。更なる高みを目指そうとする両手袋(ペア)の姿が見れるのなら、睡眠時間を削るぐらいなんてことない。可愛い後輩のために力を貸すのは、先輩としての義務だし、幸せだ。同じ気持ちである筈の藍華のためにも、彼女の姿を良く見ておかなければ。
 水先案内人(ウンディーネ)になりたての頃には考えもしなかった想いが、アリスの胸を幸福に満たしていた。
「アイさん、此処までこれたのならもうひと息。あなたは灯里先輩が後輩として見とめた水先案内人(ウンディーネ)なのだから、自分の力を信じて進めば希望の丘に辿り着けます」
 アリスはそう言いながら優しく微笑んだ。
「は、はいっ、がんばります!」
 アリスに微笑みかけられて、アイの心臓は爆発するほど強く鼓動した。普段滅多に笑うことのない《黄昏の姫君(オレンジプリンセス)》が見せた微笑はそれほどまでに破壊力があった。多分アリスの中のアイに対する想いがそんな自然な笑顔を形作らせたのだろう。
「さて、そろそろ出発しましょうかアイちゃん。それにしてもアリスちゃんが笑ったところなんて久しぶりに見たよー」
「私だって笑いたいときには笑います」
 今ではあまり顔を合わせることもできなくなってしまった二人が楽しげに会話するのを聞きながら、アイはドキドキしたままの心臓を抑えながら再びオールを漕いだ。


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