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ARIA The NextGeneration 第十一節


 アリスのおかげで難所の一つを越えたゴンドラは、しばらく進むとネオ・ヴェネツィアの外周に抜けた。そこから海を回って丘陵地帯の水路に乗り入れる。いよいよ此処を抜ければ風車の丘に辿り着ける。しかし難所がまだまだ続くのは変わりない。
 風車の丘に続くこの水路はとても距離がある。風力発電施設をネオ・ヴェネツィアの中でもっとも高い場所に建設するための輸送路として作られたのがこの水路の元々の敷設理由。空中輸送機などで資材や人員の運搬は簡単にできるのだが、その後のメンテナンスなどにこの手の大型機械を頻繁に使用するのはネオ・ヴェネツィアの気風に合わないことから、この長大な水路の建設となった。
 そして高低差を埋めるため中間には水上エレベーターが設置されており、水路を利用する者ならば普段は誰でも利用できる。
 しかし「普段」ではないこの夜中ではエレベーターを管理するオペレーターは不在のはずで、本当ならこの昇降機は動かない。
 だから風車の丘には辿り着けないのではないのだろうかと不安のままオールを漕いでいたアイは、遠くの方に先程のアリスの持っていたカンテラのような小さな灯りが水上エレベーターの手前で灯っているのを見つけた。
「あれ?」
 そしてそれは、昼間ならオペレーターが暇つぶしに椅子の上で新聞を読みながら、客待ちをしている場所だった。アイがゴンドラを進めると、それは本当に普段エレベーターを動かしている作業員の男だった。
「おじさん、こんばんは」
 電気スタンドを出している以外は、普段と変わらず折り畳みの椅子を出して新聞を読みふけっているオペレーターの男に灯里が挨拶した。
「おぅ、こんばんは」
 オペレーターは新聞から顔を上げると挨拶に答え、左腕の腕時計に目を落とした。
「お、予定より早めに着いたな」
「すいません、こんな夜中に」
「いいって、いいって。まぁあんな夜更けに『水上エレベーター動かしてください』って電話もらって最初は面食らったけどな。でもな『両手袋(ペア)の水先案内人(ウンディーネ)が風車の丘に行くから』って言われりゃ、そりゃぁ動かさないワケにはいかないさ」
「すいません」
「だからいいっていってるだろぉ」
 ペコペコと頭を下げる灯里の向こうに、話が良く飲み込めていないような顔をしている両手袋(ペア)の少女がいた。
「あんたがその見習いさんか? こんな夜中にゴンドラ漕いできて大変だったろ?」
「い、いえ、あのその」
「な〜に、ここまで来れりゃあとひと息だ。もちょっとガンバレば希望の丘さ」
 何か言いたげなアイを置いたまま、オペレーターの男は新聞を畳むと、建物の中に消えた。程なくして水路前方の鉄扉が重々しく開く。
「あの……どうしてみなさん、こんなにも協力してくれるんですか?」
 水上エレベーターの中にゴンドラを停船させたアイは「ごはんにしよ」と言う灯里の提案で、狭い箱の中で夜食にすることになった。何艘ものゴンドラを一気に運搬できるほどの容積を誇るこのエレベーター、それに比例して速度も遅いのだ。何しろ水の注排水によって上下動する構造であるのだから、遅くなるのは仕方が無い。
「アイちゃんが、無事に風車の丘に辿り着けたら、全部わかるよ」
 後輩の質問に先輩水先案内人(ウンディーネ)は、くるみパンを齧りながら曖昧に答えた。結局一人一個分くらいしか無かったパエリアのライスボールは三人とも早々に食べてしまい、今は藍華の差し入れに舌鼓をうっている状態。水先案内人(ウンディーネ)は体力勝負の仕事であるのでほぼ全員が普通の女の子よりも良く食べる。そうじゃないと仕事にならない。アイは、今は無理して多めに食べているが、その内イヤでも胃袋の方が水先案内人(ウンディーネ)標準サイズに成る筈。しかし、バリバリと美味しそうにパンを咀嚼するアリア社長は只単に食い意地がはっているだけなのだが。
「……」
 アイもこの段階に来て、この風車の丘へのピクニックが、只の行楽ではないらしいと言うことには、何となく気づいていた。自分以外の者が口にする「希望の丘」という言葉。多分これに秘密が隠されているに違いない。
 しかし何を意図したものなのか、それだけではわからない。このピクニックを企画した灯里はアリア社長と美味しそうにくるみパンを食べている。そのいつもと変わらないのほほんとした雰囲気は、普通にピクニックを楽しんでいるようにも思える。アイはそんな先輩の姿を、向いの席に腰かけて、遠い国の出来事のような感覚でぼーっと眺めていた。
 灯里に更に質問を重ねても、先程と同じ不安定な解答が帰ってくるだけだろう。安定しないものをいくらもらっても、不安が増長するだけだ。
 上を見上げてみる。
 水上エレベーターは水位の上下動によって稼動させるものなので天井部分には複雑な昇降装置は必要なくそこには何も無い。天板すらも。
 開放された天井部から覗く夜空。雲ひとつ無い綺麗な星の海が広がっている。その数多の星々を掻き分けて、大きく輝く二つの天体が見える。フォボス、ダイモス。この《AQUA》を守る二大衛星が揃って顔を出していた。
 二つの大きな月明かり。先程はアリスが道先を照らしてくれたが、今度は一対の衛星がその役をやってくれているように見える。それはまるで薄暗い森を抜けていかなければならない歳若い騎士のために、松灯りを手に露払いをする経験豊かな二人の従者のように思う。
 そんな大きな力で支えてくれる者の力を感じると、不安が薄れていくのが判る。灯里が普段と変わらない姿を見せているのなら、自分も普段通りの自分を出せば良いだけだ。
 それに灯里の言うように答えの出る場所は判っているのだし。
「……ん?」
 重々しい音が再び響くと、前方の鉄扉が開き始めた。水位の上昇は何時の間にか停止しており、エレベーターは上に到着していた。
 アイは立ち上がりオールを取ると、再び操船台に着いた。
「いきます」
 小さく声をかけて、オールを繰る。ゴンドラの右舷に漣が巻き起こり、艇体が前に滑り出す。
 アイの目の前に長い長い水路が再び顔を出した。先のまったく見えない延々と続く水の道。深夜の静謐を壊さないように静々と進むゴンドラ。二人とも無言だった。アリア社長もおとなしく灯里に寄りかかっている。
 しばらく誰も口を利かない時間が過ぎたが、不意にその凍結した刻(とき)が壊れ始めた。
 アイがはぁはぁと、少し息を乱し始めていた。良い意味で力の抜けた操船ができ始めている彼女だが、流石にこれだけの長距離運行、始めての身体にはキツくなってきているようだ。
「疲れているだろうけど、ここで速度を落としてはダメだよ」
 しかし、そんな疲労が出始めているアイに対して灯里はあえて厳しい指示を出した。こんなことをアイに言うのは珍しい――いや、始めてではないか?
「早くもなく遅くもなく、お客さまを安心させる速度を維持して、最後まで進んでみて」
 灯里は練習指導員としてアイのゴンドラに乗船した際、彼女が街中を進んでいる時、なんどかはぁはぁと荒く息継ぎをしているのを見ている。余計な力が入ってしまって、大海を力一杯進ませている時よりも余分に疲れてしまっているのだ。
 しかし今まではそれが無くなっていた。彼女は成長している。水先案内人(ウンディーネ)としてちゃんと確実に成長している。そしてこの深夜の渡航中も、彼女は成長し続けている。
 だからこそ、遂に息が乱れ始めて来てしまったアイに対して、灯里はあえて厳しい言葉を与えた。強くなろうとしている彼女。ここで楽をしてしまってはもったいない。
 灯里の指示に「はい」とアイは短く答えて、オールを漕ぐ。もう彼女は風車の丘なんていう場所へなんでこんな夜中にピクニックに行くのか、質問をしてこない。自分に与えられた仕事を実直にこなす事だけに最大の力を込めている。
 寡黙に只ひたすらに、疲れ始めた身体に鞭打って前に向かっていく彼女。それは本当に騎士そのものの姿だと灯里は感じた。
 アイが子供の頃から読んでいると語った騎士物語の最後、大魔王の下から姫を助け出した後の騎士は、こんな感じで帰還したんだろうなと灯里は思う。手前に乗せた姫に負担がかから無いように、流れるがごとく騎馬を進ませる。そしてこれこそアイが到達すべきゴンドラの動かし方なのだと思う。そして彼女がこの操方を常に出来る様になった時、彼女は何処に出しても恥ずかしくない手袋無(プリマ)になると確信する。しかし、その前には乗り越えなければならない試練が幾つもある。そして彼女はその試練の一つをもうすぐ越えようとしている。
 漆黒に染められた天空に二つの輝く衛星を従えて、試練を越えるために夜のしじまを静かに進むその姿。そしてフォボスとダイモス以上に輝く彼女の内に秘めた光。求めるものに向かってガムシャラに進んでいる途上の人間が見せる、命の輝き。
 その光に包まれた少女の姿はとても美しく、今夜この時にその姿を間近で見れる特等席につけた自分を幸せに感じる。
 ずっとずっと見ていたい、彼女がオールと共に舞う姿を……
「……?」
 灯里が気づくとゴンドラが停止していた。
「あれ? アイちゃんなんで止まっちゃったの?」
 永遠に見続けていたいと思っていた光景が突然止まってしまって、少し不満になってしまう。しかし彼女が口にした言葉は、幸福な永遠を断ち切ってでも前に進む者が口にする言葉だった。
「目的地に到着したからです」
 灯里が左を見る。其処には緩い夜風を受けてゆっくりとプロペラを回転させている風車の群。
 灯里の可愛い騎士さま――アイは、一つ試練を乗り越えていた。
「灯里さん、いちおう風車の丘に到着しましたけど、これから何をするんですか?」
 その事実を理解できていない本人が、乱れた息を整えながら、判らないままに言う。
 明日――もう今日になってしまったが、本日は一人の予約客しかないとは言え、補助員の必要な大事な乗客。片手袋(シングル)の手配もしなければならないので、用事を済ませて早く帰りたいとアイは素直に思っていた。
「アイちゃん、ちょっと良いかな?」
 灯里は立ち上がって操船台に近づくと、アイの左手を取った。そして一瞬考え深げに見つめると、彼女の左手の手袋を取った。
「……うん、マメはちょっと潰れかけてるけど、今のアイちゃんのオール裁きなら素手でも、大丈夫かな」
 灯里がアイの左手のマメを直に触る。ピリピリとした痛みが脳に伝わってくるが、我慢できない程じゃない。でも手袋があった方がまだ楽だとアイは思う。
「わ〜い、わたし今日から片手袋(シングル)で〜す」
 だから自分の仕事道具を返してくれるのを促すように、何時もの遊びのように両手を上げてバンザイをする。
「……あ、あれ?」
 しかし何時ものようにはしゃいだ姿を見せているのはアイ一人だけだった。優しく微笑んだままの灯里。慈愛に満ちた顔で見上げているアリア社長。
「もぅ灯里さんってばぁ、早く手袋返してくださいよぉ」
 その言葉に、灯里は微笑みのまま首を横に振るだけだった。
「これはもう、あなたに返す必要はないから」
「え? それはどういう……」
「おめでとう。あなたは今日から片手袋(シングル)です」
「……え?」
 その時、丘の下を望むネオ・ヴェネツィアの街の向こう、ネオ・アドレナ海から、強烈な閃光が現れた。水平線から顔を出した、生まれたての一日を象徴する朝日。どこまでも光り輝き、どこまでも透明な、生命を育む力のカタマリ。
 それは一人の少女が見せた命の輝きと同じ――玲瓏(ブリリアント)。
「今回の風車の丘へのピクニックは、実は片手袋(シングル)への昇格試験でした。こんな深夜の突然の決行だったので無理かも知れないと思う気持ちは、正直ありました。でも、あなたは私の想像を越える力をもって、私を風車の丘まで導いてくれました」
「え? ……あの」
「対向船のほとんど無い深夜の運行だったけど、すれ違うゴンドラ以上に危険な夜の闇の中をアイちゃんは無事に進んできた。それはこのネオ・ヴェネツィアの街を何度も何度も漕いで、アイちゃんの身体がこの街の建物の距離や水路の幅などをちゃんと覚えていることを意味します。最期に息が乱れちゃったけど、あなたは確かに希望の丘に辿り着きました。だからこの深夜の風車の丘へのゴンドラ操船演習は、お昼の時に実地した時と同じかそれ以上の操船を見せてくれたものと、私水無灯里は判断します」
「ぷいにゅ!」
 アリア社長が一声鳴いた。それは「おめでとう!」の意味だと誰が聞いても判る。
「アイちゃんはね、ちょっと上達が早すぎたの。自分の操船の腕に身体の強さが付いていっていなかったの。だから片手袋(シングル)になる実力はもう充分にあったけれど、待ってたんだ。アイちゃんの身体がもっと大人になるのを……でも」
 灯里は素手になったアイの左手を優しく握りしめた。
「でも、アイちゃんは騎士さまなんだもんね。騎士たるもの少しくらい無理するくらいなのがちょうど良いのかも知れないね――でもこれだけは胸に仕舞っておいてね」
 灯里の顔が真剣な表情になった。大切な事を伝えるために、瞳の輝きが鋭さを帯びる。それは水先案内人(ウンディーネ)として何年も人の命の安全を預かってきた者の目。
「アイちゃんが自分は滅んでも誰かに尽くそうとする女の子だったらこんなにも早く片手袋(シングル)にはしなかったよ。騎士っていう職業の人は、直ぐに自分の命を投げ出す無鉄砲なところもあるしね。ここはネオ・ヴェネツィア。争いのない平和な星。そうまでして心をすり減らしちゃったら水先案内人(ウンディーネ)の仕事は勤まらないもん。平和な時代の騎士には、平和な時代の騎士としての生き方があるから。だからそれを理解しないで大きくなると大変な事になる。でもアイちゃんがそうならなくて本当に良かったよ。アイちゃんは平和な時代を生きる退屈な騎士さまだけど、それを誇りにして生きていかなきゃダメだよ。自己犠牲もお客様のことを考えたら大事だけど、命を捨てる前に自分も含めて助かることを考え抜きなさい。残されたものを悲しませるような事があったら平和な時代の騎士としては失格だよ。死して英雄の騎士もいれば、生き恥をさらしての英雄の騎士もいる。アイちゃんは生き恥をさらしてもちゃんと生き残る騎士さまになりなさい」
 灯里はそう言うと、アイの掌にできたタコにそっと口付けをした。今まで頑張ってきた証への、姫からの口付け。それは騎士にとっては最大級の栄誉。
「わたし……ほんとうに片手袋(シングル)に……なれたんですか?」
「うん、そうだよ。今日からはトラゲットもできるし、補助員としての同乗もできる」
 まだ半信半疑だったアイの頭の中がそれを事実として認め始めると、身体がその嬉しさを一つの生理現象として表した。
「わたし、ようやく、灯里さんのために、働くことができるように……なって」
 零れ落ちる熱い涙が、大好きな者の側に一歩近づけた事実を、身体に記憶させる。
「ごめんね、こんな真夜中に昇格試験なんて」
「い、いいえ……それに」
 涙を拭いながら、朝焼けに包まれたネオ・アドレア海に顔を向ける。朝日の閃光が、アイの涙の雫をキラキラと輝かせる。
「お日さまにまで祝福してもらってるみたいで……わたし……わたし……うれしくて……うれしくて……」
 旭日の照り返しを受けてクルクルと回転する風車の群。此処は風車の丘。しかしこの丘に辿り着いた両手袋(ペア)は此処に冠せられたもう一つの名前を知ることになる。
 希望の丘。水先案内人(ウンディーネ)達の希望が詰まった丘。
 今まで見習いだった少女を一つ上のステップに上らせるための場所は、生まれたばかりの清廉な輝きに包まれ、最高のステージになっていた。
 その舞台の中心に立つ少女。ぼろぼろぼろぼろ、涙が零れた。拭っても拭っても、涙が零れた。
「わたし、灯里さんを守る騎士になるって決めたのに……こんなに泣いてばかりで……なんかなさけないです」
「アイちゃんは騎士さまである前に、女の子でしょ? 女の子は泣いて強くなるものだから、大丈夫だよ」
「でも……なさけないです」
「じゃあ『泣き虫騎士さま』とか仮の通り名付けちゃおっか?」
「そんなカッコ悪い通り名イヤですよぉ……」
 アイの身体がぐらっと傾いだ。そのまま灯里の胸に倒れこむ。ここまでの長距離操船の疲労と片手袋(シングル)昇進を突然言い渡された興奮と嬉しさ、それに伴う途切れた緊張感が混ざり合って、アイの身体は限界を越えた。
 灯里はアイの身体を抱えたまま、操船台の上に腰を下ろした。灯里の腰の辺りに顔を埋める格好になったアイは、眠ったまま泣き続けていた。そしてそれでもオールをしっかりと握ったまま離さないのが、ただひたすらに真っ直ぐで透明なアイの生真面目さを良く表していて、灯里は見ていて心地好かった。


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