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ARIA The NextGeneration 第十二節


 どしん!
「おや?」
 何時ものように屋外のテーブルに着こうと思って歩いていたカフェ・フロリアンの店長は、背中に軽い衝撃を感じた。
「店長さん、こんにちは」
「おや、アイさんではありませんか? どうしたのですかな、一体?」
「えへへ、店長さんの背中を見たらちょっと嬉しくなって体当たりしてしまいました」
「ほう、それは光栄ですな……ん?」
 年老いてもまだ割れた腹筋を維持している自分の腹に回されたアイの手を見てみると、片方の手には見慣れた手袋が無い。
「間違えたら失礼ですが、もしや片手袋(シングル)に昇格なされたのですかな?」
「はい! わたし片手袋(シングル)になれたんです!」
 アイは店長の身体から離れると前に回りこんで、改めて左手を彼に見せた。
「今日は片手袋(シングル)初仕事なんで色々準備があるんですけど、店長さんにはどうしてもお知らせしたくて、やってきました」
 アイが小さい頃に《AQUA》を訪れた時、道が判らなくなってカフェ・フロリアンに迷い込んでしまった時がある。その時この店長に保護してもらっていたのだが、その余りの体格の良さに彼を不審人物と勘違いしまい、アイは脱走を図ってしまった。そしてその時椅子から転げ落ちて怪我をしそうになった際、店長が助けてくれたのだ。
 アイはその時の恩を大事にしていて、水先案内人(ウンディーネ)になって《AQUA》に住み込むことになった時も、水先案内人(ウンディーネ)の知人以外では店長の下へ一番最初に報告に来ている。
 そして片手袋(シングル)になった今日も、一番最初に伝えるためにカフェ・フロリアンに訪れたのだ。
「そうですか、あの小さかったお嬢さんも、今では片手袋(シングル)ですか……どうりで最近頭に白髪が増えるはずです」
「店長さんは、頭に白いものが増えてもダンディーですよ」
 アイはそう言うとぺコリと頭を下げて店長から離れた。
「もういかないと。本当はもっとおしゃべりしたいんですが、今日はこれで失礼します」
「いえいえ、お仕事が忙しいことは喜ばしいことです。私のことは気にせずに」
「それでは、失礼します!」
 アイはもう一度深くお辞儀をすると、くるっと後ろを向いて駆け出していった。
「アイさん……本当に大きくなりましたね」
 去り行く彼女の後姿を見ながら、店長は考え深げに呟いた。
「店長、何時ものカフェラテをお持ちしますか?」
 席にも着かず、遠くを見つめたままの店長に店員の一人が声をかけた。
「いえ、本日はワインを一本所望します。それとグラスを二つ」
 店長自ら昼より飲酒をするのは憚れる行為だが、本日は一人の少女が試練の一つを超えた記念日なのだ。それぐらいの禁を破って祝杯をあげるのが、紳士としてのたしなみ。
「美しく成長したお嬢さんに、乾杯です」

 突然告げられた片手袋(シングル)昇格試験に合格した直後、アイは疲労のためにその場で気を失ってしまった。
 その後眠りから覚めると、ゆらゆらと揺れる海の上にいた。アイはゴンドラの後部座席に寝かしつけられていた。上体を起こすと、目の前にはARIAカンパニーの白い建物。
 気を失ってそのまま寝てしまった自分の代わりに、灯里がここまでゴンドラを動かして連れてきてくれたらしい。その灯里本人もARIAカンパニーの桟橋に到着した時点で疲れてしまったようで、前部座席にアリア社長を抱いたまま眠っていた。
 アイは灯里とアリア社長を起こさないように静かにゴンドラを下りると、ARIAカンパニーの開店の準備をした。カウンターのシャッターを開け、店内の清掃をし、朝ご飯を用意した時点で、もうすぐ十二時というところになっていた。本日は午後から一組の予約客しかないとはいえ、随分と寝過ごしてしまったものだ。それだけ昇格試験というものは大変なものだと改めて思い知らされた。
 昼食になってしまった朝食をアイは急いで半分程かき込むと「灯里さーん、アリア社長―、起きてくださーい」と二人を起こし、「わたしカフェフロリアンの店長さんのところまで報告に行ってきます!」と、口にトーストを咥えたままARIAカンパニーを飛び出し、報告を済ませて急いで帰ってくると、灯里とアリア社長は半分寝ながらご飯を食べていた。
「あ、アイちゃんおかえり〜」
「準備はわたしがしますから、灯里さんはゆっくり食べていてください」
 戻ってきたアイがゴンドラに積み込む荷物の用意のためにテキパキと働き始めたのを、トーストを齧りながら灯里がぽーっと見つめていた。
 しかし頭の中が半分ぽーっとしつつも、ポットに詰める紅茶を作っているアイの動きが、昨日とは少し違っているのに気づいていた。
 今までは姫屋から借りてきた片手袋(シングル)に、クルーズに必要な道具を準備して渡すまでしかできなかった自分が、今度はそれを持ってゴンドラに乗り込めるのだ。やはりそれだけでも昨日よりは動きが違ってくるだろう。事実自分もそうだったのだし。
「ごめんくださ〜い」
 その時、カウンターの方から女性の声が聞こえた。
「あ、はーい、少々お待ちくださーい」
 その声を聞いたアイがキッチンから飛んで来た。
「いらっしゃいませ、ようこそARIAカンパニーへ! お客様はゴンドラクルーズをご希望ですか?」
「はい」
「すみません、当社の水先案内人(ウンディーネ)は本日午後からの予定が一件入っておりまして、今直ぐのクルーズはお受けできないのですが……」
「はい、その本日午後からの客が私です」
「……え!?」
 アイは思わずカウンターを乗り出して相手の腹を見た。細い身体に不釣合いなほど見事に膨らんだ腹部。
「あ!? すいません!? ……えーとぉ」
 アイが慌てて予約ノートを捲る。
「本日午後一時からのクルーズをご予約のアレナさまですね、失礼致しました。わたくしは本日補助員として同乗させていただくアイと申します、よろしくおねがいいたします!」

「お客さま、毛布をどうぞ」
「やっぱり必要かな?」
「はい、海風は思ったより冷たいですから、お母さんは大丈夫でもお腹のお子さんが風邪をひいてしまうかも知れませんよ」
「フフフ、そうね」
 その言葉を聞いてアレナは気持ち良く笑った。それは身重の母体とお腹の子を同時に気遣ったのだろうが、それをまだ生まれてもいない子供が母体の中で風邪を引くということに準えるユーモアを、気分良く感じた。
 オールの準備をする灯里もアイの乗客を和ませる言葉に感心していた。片手袋(シングル)から手袋無(プリマ)に昇格するには接客もかなり練習しなくてはならないが、アイはその要素も大丈夫なような気がする。同じ無口なアリスも見事手袋無(プリマ)になって今ではトッププリマなのだから、人と接するのが苦手そうな寡黙な女の子の方が、意外に接客は上手いのかも知れない。
「では、出発いたします」
 乗客の準備が済んだのを確認すると、灯里は凛とした声で出発を促した。ゴンドラが滑り出す。
「お客さま、ご希望の場所はありますか?」
「うーんそうねぇ……とりあえずサン・マルコ寺院にでも行ってもらおうかしら?」
「はい、わかりました」
 目的地が定まると、灯里は船速を少し上げた。不快になる揺れもまったくなく艇体が増速する。うっとりするぐらいの滑らかな動きだと中央部補助席に座ったアイは思う。
 つい数時間前まで両手袋(ペア)だったアイにとって、こうして仕事中の灯里のゴンドラに乗るのは始めてだ。だから少しばかり緊張してしまうのは仕方ないが、それでも目の前でオールと共に舞う灯里の姿を見て、得られるものはないかと見取り稽古に必死だ。
 灯里は寝不足で寝起きの筈なのに、そんなことは微塵も感じさせないで優雅にゴンドラを進ませている。流石だとアイは思う。そしてそんな風に思うたびに「自分はこんな凄い人と同じ職業になれるのか?」とやっぱり不安になったりもする。
 しかし自分はもう片手袋(シングル)になったのだ。いや、なってしまったと言うべきか。もう後戻りはできない。自分もお客さまの身の安全を預かる身となった者。騎士たるもの不安を感じる事あるならば、更なる練習、努力をして、それを吹き飛ばせ!
「ここがサン・マルコ寺院です」
 アイが物思いに耽っていると、ゴンドラは最初の目的地であるサン・マルコ寺院前の水路に到着していた。流石人気スポットだけあって何十艘ものゴンドラがひしめき合っている。灯里はその中を慣れた手つきで進んで行く。後数センチで船舷が擦りそうな場面も難なくクリアしていく。しかも、サン・マルコ寺院のガイドもしながらだ。
「あそこに有ります四頭の馬の彫像は『ピザンティン四頭の馬』と呼ばれるものでして、元々太古の《地球(マンホーム)》のローマにあった凱旋門に飾られていたと言われています。それがコンスタンティノーブルに渡り、旧ヴェネツィアの提督がその地に侵攻した際、母国にもって帰ってきたそうです。そしてこのネオ・ヴェネツィアにサン・マルコ寺院が復元される時に一緒に『ピザンティン四頭の馬』も復元されました」
「……そうなんだ」
 しかしアレナは、複雑な操船と詳しい説明を同時にこなす灯里の見事なガイド振りにも、まったく興味無さげに答えた。つまらないと言うよりも、ゴンドラに乗っての観光の楽しみ方が良く判らない――そんな印象。
 そんな乗客の仕草を敏感に感じたアリア社長が「ぷいにゅ?」と首を傾げている。
「お客さま、少し静かな所にゴンドラを止めて休みましょうか?」
 サン・マルコ寺院の一折りの説明を終えた灯里がそう促した。どうもこの乗客はゴンドラクルーズよりも、ゴンドラに乗ること自体に目的があるように、灯里は判断した。
「うん……そうね」
 アレナもどうしていいか判らないように曖昧に答えた。
(大丈夫……なのかな?)
 少し沈んだ雰囲気になってしまった空気に、アイは少し心配になってしまった。

「お腹のお子さんのこと、聞いても良いですか?」
 灯里のゴンドラは、普段アイが練習の合間に昼食の場に利用している場所――じゃがバター屋が屋台を出している公園の水路に横付けしていた。やっぱりこの場所はゴンドラの数も少なく、休憩するには静かで良い場所なのだ。
「八ヶ月……かな? この子たちで二度目」
 灯里の質問にアレナは不思議な答え方をした。
「この子――たち?」
 ポットから注いだ紅茶をアレナに渡すところだったアイが思わず聞き返した。
「うん、今度生まれてくる子たちは女の子の双子の予定なの」
「えー、そうなんですかぁ? おめでとうございまーす!」
「うん……ありがと」
 しかしアレナはアイの祝福の笑顔を見ても、沈んだ声のトーンで答えただけだった。
「あの、お客さま」
 灯里がオールを操船台に置いて客席に下りてくると、アレナの前に膝まづく姿勢になった。
「本日のクルーズ……楽しくないですか?」
 接客業である水先案内人(ウンディーネ)ならば、本来そのような言葉を言ってはいけないのかも知れない。しかしあらゆる者の心の殻をぶち割る力を持つ灯里のその言葉は、一人の乗客の閉ざされた心の扉を開こうとしていた。
「……うん、楽しくない――じゃないとは思う。でも楽しいかどうかもわからない」
 灯里の心からの言葉を聞いて、アレナも自分の想いを吐露し始めた。
「もう随分昔になるんだけど、ネオ・ヴェネツィアに始めて来た時《白き妖精(スノーホワイト)》さんのゴンドラに乗りたいと思ってね、でもその時は予約が取れなくてね」
 それはアリシア・フローレンスが現役だった時代の話。水の三大妖精と称えられた《白き妖精(スノーホワイト)》の人気のゴンドラに乗るのは、やはり難しいようだ。
「で、二回目にネオベネチアに来て改めて《白き妖精(スノーホワイト)》さんのゴンドラに乗ろうと思って、その時は予約が取れたんだけど、予約を取れた直後に急に懐妊したーなんてお医者さんに言われてね。それが一人目の子。初産だったんで大事をとってキャンセルしちゃったの。でも今から考えたらそれが最初で最後の機会だったんだよね」
「……最後、ですか?」
「うん、最後。一人目が生まれてその子が一人で歩けるようになった頃、もう一度乗りに来たら《白き妖精(スノーホワイト)》さんは引退したって聞かされて。ちょっとがっかりしちゃってゴンドラには乗らずに帰っちゃったのよね」
 アリシア・フローレンスの引退。それは水先案内業界にとっても激震だった。多くの乗客も悲しんだ。そしてその強い影響力は一度もアリシアのゴンドラに乗ることの無かった者にまで及んでいたのだ。
「お腹の子が生まれたら私たち家族は《地球(マンホーム)》に引っ越すことになってるの、夫の実家に住むことになってね。だからもう此処へは簡単には来られなくなってしまうから、最後に空いた時間にゴンドラに乗りに来たの。何度も乗り過ごしてしまったゴンドラに最後ぐらいはちゃんと乗ってから《地球(マンホーム)》に行こうって……でも、ね」
 声のトーンを更に落としてアレナが言う。
「でも……なんだか、最後ぐらいはゴンドラに乗っておかなきゃって、強迫観念だけでここまで来ちゃったみたいで」
 強迫観念。アレナが語ったその言葉が、今のアレナの気持ちを一番良く表しているだろう。乗りたかった筈の《白き妖精(スノーホワイト)》のゴンドラに一番近い筈のゴンドラにようやく乗ったというのに、それの楽しみ方が判らない自分。
「だからネオベネチア四回目にして始めてのゴンドラ体験なのよね……でも三回目に来た時はもうその時《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんは現役だったんだよね。なんか申し訳ないことしちゃったね」
「お客様のこと、私覚えてますよ」
「え?」
 灯里の言葉にアレナが驚きの声を上げた。
「《白き妖精(スノーホワイト)》……アリシアさんの予約ノートは私も管理してましたから」
 灯里も半人前時代はARIAカンパニー唯一の現役であるアリシアを助けるために色々な手伝いをしていた。今のアイがそうであるように。
「寂しそうにキャンセルの電話を入れてきたアレナさんの声や、アリシアさんが引退したことを知って寂しそうに帰っていくアレナさんの後姿、覚えてますよ」
「……あ」
 そう、灯里は覚えていた。誰にでも直ぐに打ち解ける力のある灯里だからこそ、覚えていた。寂しそうに帰っていく後姿にも、打ち解けようとしていたのだ。そしていつか再び彼女がARIAカンパニーのゴンドラに乗りに来てくれた時に、ARIAカンパニーとして全力でおもてなしをしようと。だからこそ無理をして自分に補助員としての資格を持たせるために、深夜の昇格試験を行ったのだろうとアイは感じた。そして灯里が大切に想っていたお客様のために無理ができた自分に感謝した。
 主君と主君が大切に想う者に全力が尽くせるならば、それは騎士として最高の喜びだ。
「なんかごめんね……折角《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんのゴンドラに乗せてもらってるのに、引退しちゃった人の話ばかり」
「いえ、あやまるのはこちらの方です。水先案内人(ウンディーネ)はお客様に楽しんでいただくのがお仕事ですから、それができないのは私の力不足です。申し訳ございません」
「ううん、謝られても困っちゃうわ。誰が悪いのかって思ったら、最初にキャンセルしちゃった自分が悪いんだもんね」
「でも新しい命を身篭ることは悪い事じゃありません」
 灯里が優しく微笑む。
「お客様がご要望でしたら日程の最予約をしていただいてアリシア・フローレンスに特別運行をお願いいたしましょうか?」
 灯里がそう提案した。アリシアの人柄を考えれば、たった一人の可愛い後輩の頼みであれば、貴重な休日をも返上して喜んで馳せ参じてくれるだろう。
「ううん、それはいいわ。そのご好意だけありがたくいただきます」
 アレナもそこでようやく微笑を浮かべて、柔らかく断った。アレナもそこまで強要する気持ちは無い。彼女も節度をわきまえている大人の客だ。
 でも残念に思う気持ちは拭いきれないだろう。
「私、アリシアさんの代わりは出来ませんが《白き妖精(スノーホワイト)》が所属していたARIAカンパニーの水先案内人(ウンディーネ)として、全力でおもてなしします。だからお客様も私たちと一緒に《AQUA》の最後のクルーズを、全力で楽しんでいただけませんか?」
 最後だからゴンドラに乗らなければならない――そんな使命や仕事みたいに乗ったのでは楽しくもない。それは心を込めた接客を一番に考えるARIAカンパニー創業からの想い――そしてそれを強く受け継いだ灯里だからこその言葉。
「全力、か……」
 大きなお腹を擦りながら、アレナが呟く。
「そうね、折角ネオ・ヴェネツィアまでやってきて折角ゴンドラに乗ってるんだもんね、全力で楽しまなきゃ、損よね」
 そして灯里の想いは、アレナにもちゃんと伝わった。
「……」
 アイは、言葉を失っていた。こんなにも積極的に乗客の心の中に入り込んで、そして心の扉をこじ開けてしまう。
 灯里の中にある「誰とでもすぐに仲良くなってしまえる」という能力。それはどんなに頑固な相手でもあっても、どんなに頑なに拒絶する相手でも、最後には仲良くなってしまうという、凄い力。
「折角出逢ったのだから、仲良くなりたい」という灯里の素直な想いは、どんな時でも、どんな場所でも伝わっていく。
 アイ自身も《AQUA》に始めて降り立った時、ツンツンと凝結したままの心を溶かしてもらっているのだ。その力の恩恵を受けているからこそ、その凄さを改めて感じる。
「……」
 素手になった自分の左手を見てみる。指の付け根に並んだタコ。しかし接客に関してはいくら手にタコを作っても慣れるものじゃない。
 頑張らなくては。片手袋(シングル)になれたくらいで浮かれていてはダメだ。わたしはこんなに凄い水先案内人(ウンディーネ)の後輩なのだ。今まで以上に努力をしなければ、この女性(ヒト)には追いつけない。騎士たるもの、現在の自分に絶対に満足してはならず。常に己を磨き高みを目指せ!
 アイはぎゅぅっと、左手を握りしめた。
「ではお客様、次はどこに行きましょうか?」
 自分の力を目の前で垣間見て後輩が新たな決意をしているとは露知らず、灯里はアレナに次なるコース指定を促した。
「そうね、折角だから《遥かなる蒼(アクアマリン)》さんにお任せにしよっかな?」
「そうですか? でしたらまずは、猫さんたちがいっぱい見れる小道をご案内しますね」
「フフフ、それは良いわネ」

「……あ、ARIAカンパニーのゴンドラだ」
 配達を終えて帰宅途中だったアルティシアは、水路から大運河に抜けようとしている一隻の白いゴンドラを見つけた。
 それを動かしている者の服装は、水先案内人(ウンディーネ)の基本カラーであるホワイトに、ブルーのラインで彩られた制服。ネオ・ヴェネツィアっ子なら誰でも知ってる水先案内店、ARIAカンパニーの制服。
 しかし誰でも知っているとは言え、ARIAカンパニーの白い商用ゴンドラはネオ・ヴェネツィアに一隻しか存在しないので、見つけるのは大変だろう。四葉のクローバー見たいに「見つけられたらその日一日は幸運」だなんて噂もある。
 水路を走るARIAカンパニーのゴンドラには、乗客一人に対して、一人の手袋無(プリマ)に補助員が一人という構成。多分乗客が身体が不自由なのか妊婦なのか、いずれかなのだろう。
 しかし手袋無(プリマ)は灯里さんだとしても、あの補助員は誰だろう? また他の会社から借りたのだろうけど?
 アルティシアがエアバイクをホバリングモードにして良く見ようと首を伸ばしてみると
「って、アイさん!?」
 その補助員は手袋無(プリマ)とまったく同じ制服を着ている。ARIAカンパニー唯一の手袋無(プリマ)である水無灯里と同じ制服を着ている者。それはこの水の都には一人しかない。
 アルティシアはその正体を知って思わず声を上げてしまった。
 しかし先日までのアイは補助員としての同乗も許されない両手袋(ペア)だった筈。アイはアルティシアのバイクを運ぶ時、自分のゴンドラに彼女を乗せるわけにはいかないので、牽引するバイクの上に乗ってもらったくらいなのだから。
(そういえば夜中に昇格試験をして見事片手袋(シングル)に合格した水先案内人(ウンディーネ)がいるって噂になってるけど……それがもしかしてアイさん!?)
 そう、どうやら昨日友達になったばかりの新人水先案内人(ウンディーネ)は、とんでもないことをやり遂げたようなのだ。
(すごーい、もしかして私が教えたオールの漕ぎ方、役に立ったのかな?)
 それは役に立ったどころではなく、半分はアルティシアのおかげで昇進できたようなものだ。しかしそれを知ってもアルティシアが自分の教えを自慢したりすることはないだろう。正々堂々とした騎士の友人は、やはり正々堂々なのだ。
(よし、これはお祝いの花束一つくらいはARIAカンパニーに持っていってあげないと……)
「……痛っ」
 しかしその興奮は彼女の身体に大きな負担を与えてしまった。突然心臓が鷲掴みにされたようにギリリと痛み出す。
「あ……あぁ……」
 声も出せない程の痛さ。助けを呼ぶことすら許されない、心臓の束縛。
 そしてその束縛は彼女の身体を、その場に繋ぎとめておく事すら許さなかった。アルティシアの身体がグラリと揺れる。腕に力が入らない。昨日は乗っていたエアバイクが不調になってしまったが、今日は自分自身の身体が壊れかけるとは。
 自分の身体が心臓の病に侵されていることを知ってから、アルティシアも何度か死を覚悟したことはある。しかし今この時命を失うのは、悔しい。一つ成長した友人の為に、お祝いの言葉一つ残せないでこの世から消えなければいけないなんて。
 ズルリとすべり落ちた意識の片隅で、アルティシアの思考は最期に友達のことを想った。
(せめてアイさんに、片手袋(シングル)昇進おめでとうって言いたかったな……)


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