ARIA The NextGeneration 第十三節
(……あ、アルティシアさんだ)
アイは灯里のゴンドラの後方に、エアバイクが一台ふよふよと浮いているのを見つけた。黄色いエプロンにセミロングの髪、それは遠くから見ても彼女だと判った。
配達の帰りかな? アイがそう思っていると、車上の彼女の身体がぐらりと揺れ、そのまま運河の上に落ちた。
「アルティシアさん!?」
思わず叫び声を上げるアイ。アレナはその声に素直に驚いた表情を見せたが、灯里は一瞬驚いた顔を見せただけで、アイの目線の向こうを追った。急いで振り向くと、運河に一つ水飛沫が上がっていた。その上を確認すると無人のエアバイクが漂っている。
「人が……落ちた!?」
「アルティシアさんが!? アルティシアさんが!?」
「落ち着いて、アイちゃん!」
灯里も、アルティシアは心臓を患っていると聞いたことがある。もしかして、それが酷くなったのでは!?
周りを確認する。辺りにはまったく船影がない。救助のできそうな船が一隻もいない、ちょうどエアポケットのような時間。しかし船がいないということは、アルティシアが甲板に叩き付けられることが無かったと考えるべきか?
そして周りに居るゴンドラで一番アルティシアの水没時点に近いのは……このゴンドラだ。灯里の顔が険しい表情になった。
「お客様、本艇は水上交通法に従い、遭難者の救助へ向かいます。ご了承のほどをお願いいたします」
全力でゴンドラの旅を楽しませると言った手前、一瞬躊躇うものあったが、今は人の命が懸かっている。
「急いで行ってあげてください」
ゴンドラではなく艇と告げた言葉。それは只ならぬ事態。アレナもクルーズを楽しんでいる場合では無いと直ぐに判断し、灯里に了承した。
「アイちゃん、お客様を守ってあげて!」
灯里はそう告げると、足を開き、大きく漕ぎ出す準備をした。
「はい!」
灯里の真意を悟ったアイは、お茶を飲むために用意した道具を素早く片付けると「お客さま、お手を!」をと、アレナの手を取り、乗客を後席からゴンドラの中央部に移動させ、船尾を前にして船底にしゃがませた。
そして自分は彼女と灯里の間に出て、両腕を広げてゴンドラの両縁を掴んだ。
「お客様、これから本艇は大きく揺れます。出来るだけ姿勢を低くしてわたしの身体に利き腕で掴まり、空いた手で補助席にお掴まりください」
アレナは言われた通り、右手をアイの身体に回して抱きつき、左手で補助席の脚を掴むと、できるだけ頭を下げた。仮設の補助席は掴まりやすい把手として、こういう時に役に立つ。
背中に押し当てられたアレナの大きなお腹が、ドキリと命の鼓動をアイに伝えた。
「アリア社長も静かにしててね」
「ぷいにゅ!」
アリア社長も乗客のお尻の辺りに張り付くと、相手を支えるような姿勢になって静かになった。彼もこんな時は無駄に騒ぎ立てたりしない。こう見えて良く出来た社長なのだ。
アイと乗客の準備が整うのを確認した灯里は深呼吸をすると、一つオールを大きく振り上げた。
「……いきます!」
バシャリと水面を一つ大きく叩いて、ゴンドラが後進を始める。ネオ・ヴェネツィアで一般的に使用されているゴンドラのデザインは後向きに進むようにはできていないのだが、灯里がオールを繰る度に、驚くべき速度で進み始めた。
これが灯里の無敵の逆漕ぎ。通常の水先案内業務では絶対に見せることの無い《遥かなる蒼(アクアマリン)》の妙技。アイも一度、アリア社長救出時に逆漕ぎの灯里のゴンドラに乗った時があるが、今はその時以上の速力が出ていた。
灯里はまったく後ろを振り向かないのに、ゴンドラは一直線でアルティシアが水没した場所へと進んで行く。周りの建物の位置からある程度距離と空間を把握し、見ないでも進めるのだ。それはこのネオ・ヴェネツィアで何百何千とゴンドラ操船の練習を続けてきた水先案内人(ウンディーネ)にのみ許された芸当。
そして灯里が前に振り向けない理由も一つある。お客様の安全を確保するのが最優先だからだ。アイが自ら盾になって守ってくれているとは言え、相手は最大限に注意をしなければならない妊婦の身体。水でほんの少し母体を冷やしてしまっただけで、赤ちゃんに大変な影響がでてしまうかも知れない。
だからこそ灯里は前を一切見ずに、進んでいくのだ。
ゴンドラが人が漕いでいるとは思えない程のスピードで進み、船体後部が波を切り裂き、アイも飛び跳ねてきた波飛沫を大きく被る。
「アイさん……」
アレナが高波に対する盾になってくれているアイに心配そうに声をかけてきた。
「だいじょぶです!」
海水で濡れてびしょ濡れになった顔で精一杯の笑顔を作るアイ。
お客様を不安にしてはいけない。笑顔は安心を作る一番の材料だ。だから自分もそのために全力で頑張る。
わたしはまだ半人前になったばかりの水先案内人(ウンディーネ)だけど、それぐらいのことはできるんだから!
そうこうしている内に灯里のゴンドラがアルティシアが沈んだ地点に着いた。此処まで二分弱。まだ間に合う時間だ。
「灯里さん! わたしが行きます!」
オールを置いて帽子を脱いで、水路に飛び込む準備の寸前の灯里に、アイは叫んだ。
「アイちゃん?」
「わたしは補助員なんです! だから正規の乗員ではないわたしが行ったほうが……」
「ダメ!」
灯里は制服の胸の部分を引き裂きながら、強く制した。
「アイちゃんはまだ水中救助の訓練を受けてないでしょ? 不慣れな人間が行っても二重遭難しちゃうだけだよ!」
「でも!」
自分は灯里を守る騎士になるために此処まで来たのだ。姫に無理をさせて何が騎士か。だからアイも引き下がれない……しかし
「騎士さまより姫の方が強かったら、姫に従うのが騎士の務めよ!」
アイの考えが判っているかのように灯里が叫んだ。そしてその瞳が鋭さを帯びた。それはアイに今日から片手袋(シングル)として仕事をしていく心得を伝えた時の瞳。平和な時代に生きる騎士である彼女に伝えた言葉。
例え強い覚悟があったとしてもどうにもならない時もある。惨めでも、今は恥を晒す時だとアイは悟った。ここは自分より遥かに経験値の高い灯里に任せるしかない。
「灯里さん……ごめんなさい」
その言葉を聞いて灯里は首を横に振ると、服の胸元を完全に引き裂いて、制服を下に落とした。既に靴も脱いでいる。
元々水兵の制服であるセーラー服は、その大きな襟(カラー)を掴んで簡単に引き裂くことを可能としたものだ。これは海に転落した時に、簡単に脱げて楽に泳げるようにする為。そしてそのデザインを受け継いだARIAカンパニーの制服も同じ理由で、胸元から簡単に引き裂ける。水先案内人(ウンディーネ)は着衣遊泳の訓練もしてはいるが、服を着たまま救助者が飛び込んでは二次災害になりかねない。灯里はそんな素早い救助に適したデザインの制服を用意してくれたグランマに心の中で感謝すると、躊躇なく水に飛び込んだ。
「灯里さん……」
この場所は大運河とは言え、人工的に作られた水路の一つであるのは変わらないので、水深はそんなに深くはない。しかし、不安は拭い切れない。視界も良いとは言えない。
そんなところに飛び込んだ灯里を、アイは心の中で無事を祈る事しかできないのが、悔しかった。
「おーい、そこのゴンドラー! どうしたー!」
そんな時、アイの耳殻を機械で増幅された野太い声が突き抜けた。遠くから轟くスピーカーの声。一隻の水上バス(ヴァポレット)が異変に気付いて、航路を変え此方に迫ってきていた。
「船長さん! SOSです! エアバイクの女の子が一人水路に落ちました! 水先案内人(ウンディーネ)が一人救助に飛び込みました! SOSです!」
ようやく来てくれた救助の声に、アイは力の限り叫んだ。それは水面を振るわせるほどの、咆哮と言ってもいいものだった。
「ぷいにゅ! ぷいにゅ!」
大きな声の出し過ぎで一瞬放心状態になっていたアイの足を、アリア社長がぐいぐいと引っ張る。
「アリア社長、なに?」
「ぷいにゅ!」
アリア社長が指差す方向を見ると、束ねた長い髪の毛がゆらりと水面下に浮かび上がり、一瞬の後、顔を出した。
「ぷはぁ!?」
「灯里さん!?」
十メートルほど離れた場所に灯里が顔を出した。脇にはアルティシアを抱えている。
「……アイ、ちゃん……早く」
灯里が何とかそれだけ口にした時には、アイはオールを掴んで操船台に飛び乗っていた。
「アレナさん揺れます! しっかり掴まっててください!」
「うん!」
アイはオールを振り回し猛々しく水を掻き始めた。ものの十数秒で灯里の下に到着する。
「アルティシアちゃんを……」
ぐったりとして動かないアルティシアの身体を、灯里が水中から押し上げる。
それをアイがゴンドラの上に引っ張り上げようとするが、思うようにいかない。水を含んだ服を来たままの身体は意外に重い。
アイがどうしようかと思っていると、横から腕が一対伸びてきた。
「アレナさん!?」
アレナが身体を伸ばしてアルティシアの身体を掴もうとしている。
「ダメですよ! アレナさん身体濡れちゃう!?」
アレナは身重の大事な身体だ。濡れた身体が冷えて本当に風邪でもひいてしまったら、お腹の子にどれだけ影響がでるか判らない。それにもし万が一姿勢を崩して水の中に転落してしまったら……
しかし、アレナは首を横に振りながら、アルティシアの身体を引っ張り上げるのを手伝う。
「私が手伝えば、その娘を引っ張り上げられるわ。それをためらう理由なんてない。この娘も私も私のお腹の子も、みんな安全に戻るためには、私が手伝うのが一番良いの。だからそれをためらう理由なんて無い」
それは、アイが片手袋(シングル)になった時に灯里からもらった言葉と同じ。自分も含めてちゃんと全員生き残るための覚悟の言葉。
「それにね」
そしてアレナは、大人の女性としてのもうひとつの要素を兼ね備えた人間だった。
「お腹の子たちが言ってるわ『わたしたちは風邪をひいても良いからお母さんがんばれ』って」
それは母としての強さ。アイもそして灯里も持ち合わせていない、女として最高の力を引き出せる力。我が子のためなら母親だったらどんなことでもできる。そんな例え様も無い強い母性を感じて、アイは冷水を浴びせられたような気持ちになった。
「……わかりました、お願いします!」
自分が水先案内人(ウンディーネ)で水に慣れてるからって、彼女が乗客で身重だからって、そんなの関係ない。アレナは自分より強く、そして気高い。己より高尚なる者に従うのは、騎士として当然の行いだ。彼女は自分が心配しなくても自分の身体とお腹の子を守れる。そんなことを心配する方が、彼女に対して失礼だと、アイは悟った。
「……せぇ、のぉ!」
二人が力を合わせてアルティシアを引っ張り上げた。水の中から押し上げる灯里の力も加えて、なんとかゴンドラの中にアルティシアの身体を引き上げられた。
「次、灯里さん!」
アイが再び水の中に手を伸ばすと、灯里は頭(かぶり)を振って断った。
「私よりも、早くアルティシアちゃんの蘇生措置を。息はしてないけど心臓はまだ動いてるから……人工呼吸、できる?」
本来なら慣れている灯里がやった方が良いのだが、水底に沈んでいたアルティシアの身体を引き上げるのに体力を全部使ってしまった。だからもうアイに託すしかない。
「はい、やります!」
アイは灯里の言葉になんのためらいも無く返事をした。灯里が、そしてアレナが、アルティシアのことを身を挺して助けようとしている。だから今度こそ自分が全力を出す番だ!
人工呼吸の方法は、水先案内人(ウンディーネ)の採用試験にも出てくるので、アイもちゃんと勉強していた。もちろん実際にやるのは始めてだが、身体が自然に動いた。
アルティシアを船底に寝かせると上体を少し持ち上げ、頭から上が下を向くようにして気道を確保、後は彼女の鼻を摘んで外部から送り込まれる空気が漏れないようにする。
「アルティシア……生きて」
アイはそう一言呟いて息を大きく吸い込むと、アルティシアの唇に自分の唇を重ねた。
力の限りアルティシアの身体の中に空気を送り込む。生きて、生きてと、命の火を分け与えるように。
その場にはアイのふー、ふーと言う激しい息遣いしか聞こえなかった。隣りでアレナは黙って見守っている。アリア社長はこれ以上アレナの身体を冷やさないようにと彼女のお腹に張り付いている。灯里はアイの邪魔をしないようにゴンドラの縁に掴まったまま、まだ水の中にいる。
救助のためにやって来た水上バスの近づく轟音が響いている筈だが、その場は不思議な静寂の世界に包まれていた。蘇生する切っ掛けを逃さないように、深く静かにたゆたう時間。
そしてその沈黙を破ったのは……
「……げほぉっ……ごほぉっ」
アイの唇を遮るように、アルティシアが水を吐き出した。
「アルティシア! アルティシア!」
摘んだ鼻を離し自分で呼吸できるようにすると、アイは彼女の名を叫んだ。
「アルティシア!」
アルティシアは目を開いた。その瞳に移るのは、水先案内人(ウンディーネ)の女の子の顔。もう逢うことはできないと悟った筈の、親友の姿があった。
「……アイ、さん?」
その声を聞いてアイは涙を噴き零しながら、彼女の身体を抱きしめた。
「アルティシアぁ!」
直ぐ其処まで近づいてきた水上バスから歓声が上がった。アルティシアは助かった。水先案内人(ウンディーネ)の素早い判断と、乗客の母としての勇気と、そして新人片手袋(シングル)の頑張りによって、一人の少女の命は消えること無く、この世に繋ぎ止められた。
「船長さん! バスを、ゴンドラに横付けお願いします!」
まだ水の中にいる灯里が、近づいてきた水上バスに叫ぶ。
「あいよ! まかせとけ!」
水上バスが巨体をゴンドラに寄せていく。バウスラスターとサイドスラスターを器用に使い分け、殆ど震動させることもなくゴンドラと船舷を合わせた。さすが何十年と水上バスを動かしてきた腕前だ。
縄を持った乗客の一人がゴンドラのペッティーニに舫いを巻きつけ、水上バスと艇体を完全に固定する。
「すまんな客にそんなことさせちしまって」
「なーにいいってことよ。だから船長はそこで船が揺れないようにしっかり舵握っとけよ!」
この辺りは流石水の都ネオ・ヴェネツィア。水難事故にはみんなが率先して働く。
まず水の中にいたままの灯里が助け出された。次にアイの希望によってアレナが水上バスに移乗する。
「さ、アルティシア、もう大丈夫だよ」
船舷に持ってきてもらった担架の上にアルティシアの身体を横たえながら、アイが優しく言う。
「私……アイさんに呼び捨てで呼んでもらってるね」
アルティシアはいまだ朦朧とした意識の中、アイの自分の呼び方が変わっているのに気づいて、少し嬉しそうに微笑んだ。
「あ、ごめんなさい!? わたし、咄嗟のことだったから、思わず呼び捨てで呼んじゃって……」
「ううん、私たち友達なんだもん、だからお互い呼び捨てで呼び合うのも良いと思うよ……だから、助けてくれてありがとう、アイ……それと」
アルティシアは素手になったアイの左手を握り締めながらこう言った。
「……片手袋(シングル)昇進おめでとう、アイ」
言えないと思っていた祝福の言葉が言えて、アルティシアは満足したように瞼を閉じた。アイの手を握った指も力が抜けたように開く。再び気を失ってしまったようだが、今はちゃんと息をしている。心臓も動いている。大丈夫だ。
「アルティシア……ありがとう」
アイはアルティシアの担架が運ばれるのを確認すると、アリア社長と共に水上バスに乗り移った。
後部デッキに乗り移った時、灯里はアンダーウェア姿のまま床にべったりと座って疲れた顔を見せていた。
デッキには沢山の人。それは海に落ちたアルティシアとそれを救助に向かったゴンドラを助けるために客室から出てきた乗客の群なのだが、その状況がアイにパニックを起こさせた。
「灯里さん!?」
思わず飛び出して灯里の前で両手を広げて仁王立ちになるアイ。
たくさんの男たちに囲まれた半裸の灯里。だから声を上げてしまった。
「見ないであげてください! 灯里さんを見ないであげてください!」
それは水先案内人(ウンディーネ)として仕事をする社会人の矜持に照らし合わせるのなら、本来言ってはいけないことなのかも知れない。
しかし、アイの心からの絶叫を間近で聞いた男たちは、ニヤリと頼もしそうな笑いを見せた。そして男たちは仕事を終えると、全員がくるりと後ろを向いた。
「へへ、そこは水の都の男のたしなみってヤツさ。お嬢ちゃんに言われなくたって、見たくっても見ないさ」
男が背中を向いたままアイに答えた。他の男たちも後向きのままうんうんと頷いている。
「あ――すいません、取り乱してしまって」
アイは自分の行動を恥じた。乗客たちは自分たちを助けるために真剣に行動してくれているのだ。そんな色欲に侵された者などいる筈が無いのだ。
「本当に申し訳ございません」
折角の恩を仇で返すようなマネをしてしまって、アイは深々と頭を下げた。
「いいって、いいって、アンタの行動は間違っちゃいないさ」
「つーわけで後は頼んだぜ女たち!」
「あいよ!」
仕事を終えた男たちがゾロゾロと客室に引っ込むと、残った女達が灯里の介抱をしてくれた。
「お嬢ちゃんは、まるでお姫様を守る騎士(ナイト)みたいだね」
灯里の身体に水上バス備え付けの毛布をかけた女性の一人が、うな垂れたままのアイにそう言った。
しかし今のアイには、そんな何時もだったら嬉しい筈の褒め言葉も、己の恥じを増長するだけのものにしか成らなかった。周りの人間を不快な気持ちにさせて、何が騎士か。
「アイちゃん、わたしの制服持ってきてくれるかな? 破いちゃったけど、まだ着れると思うから」
そんなアイの気持ちが判ったのか、彼女に少しこの場を離れる機会を灯里は作った。
「……はい」
アイは少しトーンの落ちた声で答えると、水上バスに横付けされた灯里のゴンドラに向かった。一人の少女を助けるために水面を翔けた白き箱舟は、ただ泰然と無人で進んでいた。