第十七話 ツバサノキズナ
「……うなっ!……りゅうなぁ!!」
何処からか自分の名前を呼ぶ声がする。
「……りゅうなってばぁっ!!!」
「……う〜ん……ぅん!?……あ、はいっ!」
がばっと物凄い勢いで龍那が身体を起こした。
眠けまなこを半分ぐらい開いたその先には、ショートカットの女の子の顔があった。親友のまりあだ。
「……?……あ、まりあ……」
まだ目が冷め切ってない龍那が、ぼーっとした頭で呟く。
「もぅ、あ、まりあ、じゃないよぉ、もうみんな帰っちゃってるよぉ?」
「……ん?」
龍那がまだ眠けが冷め切ってない眼できょろきょろと教室内を見回す。自分とまりあ以外の者は既にいなくなっていた。
ホームルームが終わってそのまま掃除の時間になった所までは覚えていた。まりあと一緒に帰る約束をしていた龍那は今日の掃除当番であったまりあを待っていたのだが、何時の間にか睡魔に襲われ自分の机に突っ伏したまま眠ってしまっていたらしい。
「……あ、ごめん、わたし寝ちゃってた……」
龍那が眠けの冷め切ってない瞳を拳で、ぐしぐしと擦りながら呟く。それは何だか猫が自分の顔を洗っているような仕草に見えた。
「ふぅ、ほんとはりゅうなが起きるまで待ってようかと思ったんだけど、いつまでたっても可愛い寝顔したままだったから、起こしちゃっタ」
まりあがぺろっと小さく舌を出しながら、少し申し訳無さそうな顔で答える。
「う、うん、寝ちゃってたわたしも悪いんだし、起こしてくれてアリガト」
そう言いながら龍那がにこっと微笑えむ。
「うん、じゃぁ帰ろ」
「うん」
二人は何時も登下校に使っている通学路を、てくてくと歩いていた。
「ふぅ、明日は授業参観なんだよねぇ」まりあが、ため息混じりに呟いた。
「え!? そうだっけ?」まりあの言葉に龍那が思わず問い返した。
「もう、りゅうなってば、先生が一週間ぐらい前から言ってたよ? それに今日プリント貰ったし」
「そ、そうだっけ??」
慌てて手に持つ鞄を開けると、がさがさと中を物色し始めた。しばらくしてノートと教科書の間から、丁寧に折り畳まれた一枚の紙片を見つけた。龍那はその紙片を取り出すと、目の前で開いてみた。
それは「父兄参観のお知らせ」と大きくタイトルの打ってあるプリントだった。内容は当日参加する親族の集合場所、当日のスケジュール等事務的な事ばかりだった。
龍那はこの連絡紙を貰った記憶が全然無かった。
「……?」
まりあを待っていて寝入ってしまってそのまま記憶があやふやになってしまったのだろうか?
「……??」
「りゅうなちゃんちのお父さんって、航空隊の戦闘機のパイロットをしてるんだよね? 格好良いなあ」
まりあが少しうっとりとした口調で呟く。
……そうだっけ……?
龍那にはどうもピンとこなかった。
航空隊、戦闘機、そしてお父さんと言う存在……何か自分の家の事では無い様な気もするし、自分の家がそうである様な気もする……
「……?……ま、良いか」
何だか狐につままれた様な気もするが、とりあえずこの場はそう言う答えにしておく事にした。
しばらく考える事に集中していた龍那は、目の前に十字路が迫って来ている事に、今気付いた。まりあが右の道に流れて行こうとしていた。
「じゃ、私こっちだから」
「あ、うん」
自分の家のある方角に進路を変更しようとしているまりあに、素直に頷きながら答える。
「また明日ね、りゅうなぁっ」
「うん、バイバイ」
まりあは龍那のお別れの言葉を背中に受けて、たたっと駆け出していった。
龍那はセーラー服のスカートをひらひらさせながら小さくなって行く親友の後姿に手を振ると、自分の家に向かう歩速を早めた。
「ただいまぁー」
龍那は小さく帰宅の挨拶をしながらドアを開いた
だが、そのただいまの言葉に誰かが返事をしてくれる筈が無かった。自分が持っていた鍵を使って施錠されていたドアを開いたのだから、それは当然だった。
誰もいる気配が全然しない少しひんやりとしたアパートの室内に、龍那は自分の小さい身体を入れた。
「よいしょ」
龍那がそう呟きながら、自分が持っていた鞄を部屋の壁に立て掛けるようにして置くと、とてとてと台所の方に歩いて行く。
小さめなサイズの冷蔵庫が目に入る。カランと接続ヒンジの可動音を奏でながらドアを開いた。
それ程食材の詰まってない冷蔵庫の中のドアの部分に眼をやると、ドア裏の棚に入った紙製の一リットルパックが何本か目に入る。龍那はその中の「珈琲牛乳」と大きく書かれたパックを手に取ると、パタンと冷蔵庫のドアを閉めた。
台所のシンクの上に並べてある洗浄済みのコップの中から一つ選ぶと、その中にパックの中身をとぽとぽと注ぎ始めた。
500mlは軽く入りそうなそのコップに並々と珈琲牛乳を注ぐと、再び冷蔵庫のドアを開き、役目の終わった紙パックを元の位置に戻した。中にはまだ三分の一程中身が残っているようだ。
龍那は中身の満たされた少し大きめなコップを両手で持つと、自分の小さい唇をコップの端にあてがって、こくこくと飲み始めた。
見る間にコップの中のベージュの色をした液体が、彼女の口の中に消えて行く。
「……はぁ」
瞬く間に500mlを超える量の珈琲牛乳を一気に飲み干した龍那が、満足したように息を吐いた。
並みの男でも一寸辟易してしまいそうな量の珈琲入りの牛乳を、彼女は一息つく事も無くその小柄な身体に全部納めてしまっていた……何だか凄い。
自分の身体を満足させられるだけの量の水分と糖分を補給した龍那は、次の行動を起こすべく台所の棚の上に手を伸ばす。大好きな珈琲牛乳を飲んで一息つけた龍那は、これから台所仕事に立とうとしているようだ。
手を伸ばした其処には、綺麗に畳まれたエプロンが二つ並べて置いてあった。
「……しょっ、とぉ」
龍那は背伸びをしながら一回り小さい方のエプロンを取ると、制服の上から身に付け始めた。
「う〜ん」手を後ろに回して器用にエプロンの紐を結んで、準備を整えた。
とりあえず自分が先程使ったコップを手早く洗って元の位置に戻した龍那は、その小柄な身体を屈みこませると、冷蔵庫の脇から半透明のタッパーを取り出した。結構大きめな作りのそれは、普段米びつ代わりに使っている物だった。
タッパーの蓋を取ると、中に米と一緒に入れてあった計量カップに、カップの縁ギリギリに米を詰め込む。これが丁度一合分になる。それを荒い籠に乾かしてあった炊飯釜にあけた。
これを都合三回繰り返して三合分の米を用意すると、水道の蛇口をひねり、米の入った炊飯釜に水を入れ始めた。水の流れる音と連なって、鉄製の釜の中が新鮮な水で満たされていく。
龍那がその小さい手を炊飯釜に突っ込んで、しゃきしゃきと子気味良い音をさせながら米を研ぎはじめた。中々丁寧で手馴れた手付きだった。料理をする事に結構なれているのが解る。
研ぐのと、白く濁った水を取り替えるのを何回か繰り返して、ある程度濁らなくなったのを確認すると、一旦水を良く切ってから再び水を中に溜め始めた。
今度は少しゆっくりと水を出している。米を研いでいる時のような勢いは無い。慎重に計りながら炊飯釜の内側に付けられたメモリに刻まれた三合分の水の量を表すラインまで水を溜めると、素早く蛇口を止めた。
龍那は準備の出来た炊飯釜の底と周りをエプロンの裾で拭いて良く水分を取ると、シンクの脇に置いてある、電気炊飯器本体に収めた。
直ぐには電気は入れない。幾らか寝かせて米に水分を吸収させないと、ふっくらと美味しく炊く事は出来ない。季節にもよるが、大体十五分〜三〇分といった所か。
「まあ、20分ぐらいかな?」
龍那はそう一人で呟くと、少し時間が空いたので台所の隣の居間にエプロンを付けたまま腰を下ろした。
「……えーとぉ?」
先程壁に立てかけておいた鞄を引き寄せると、中身を取り出し始めた。
少し宿題でも片付けようかな? と思い、ノートを開いた時、ふいに表のドアが開いた。ドアノブが動く金属音の後に、女性の、それもかなり可愛い声質の声が続いた。
「ただいまぁー」
その、かなり上の方から聞こえて来る聞き慣れた声にすぐに反応した龍那は、ドアの方に顔を向けながら返事をした。
「あ、お帰りなさい、おねえちゃんっ」
其処には学生服に身を包んだ随分華奢な女の子が、右手に通学鞄、左手に食材の詰まった買い物袋という格好で立っていた。
「うん、ただいま」
妹の「お帰りなさい」を聞いて姉である龍雅がもう一度「ただいま」を言う。
脱いだ靴をちゃんと揃えると、敷居に頭をぶつけないように少し身を屈めながら、妹の座る居間に入って来た。
小柄な妹に比べてその姉はかなり大きな背をしていた。現在高校二年生である彼女は丁度180cmを数える長身を、高校の制服らしい学生服に身を包んでいる。
普通なら女の子でこれだけの身長をしているとその長身をコンプレックスに感じてしまう処だと思うが、妹の龍那は姉がその事で悩んでいる処を、殆ど見たことが無かった。
何時もそのほわわ〜んとした彼女特有の空気を振りまいて、世間の奇異の目など何も気にする事も無く、堂々と生きて行っていた。
また、自分の姉は本能的にその自分の長身を生かす生き方を今までして来ていたのではないだろうか?と、龍那は思っていた。
龍雅はその女性としては余りにも大き過ぎる身長を臆する事無く、常に堂々と振る舞っていた。
それが龍雅と言う女の子特有の凄まじくおっとりとした正確から来るものなのか、それともちゃんと考えて行動しているものなのか、妹である龍那にも全然解らなかったのだが、その自分の長身を自慢するがごとくのびのびと振る舞う姉の姿を、龍那はとても格好良く感じていた。
「すぐ夜ご飯、作りますからネ」
龍雅はそう言うと右手に持っていた学生鞄を龍那の鞄の丁度隣に立てかけた。そしてそのまま左手に残った中身の膨らんだビニール袋を持って台所に消えた。
「あ、おねえちゃん、朝学校行く前に今日はハンバーグにするっていってたから、とりあえずお米だけ研いどいたけど?」
「わぁ、ホントですか? ありがとう、助かりまス」
龍雅が本当に嬉しそうな顔をして答える。
「……え〜と、ねえ」
龍那が壁に掛けられた円形の時計を見て時間を計算する。
「五分ぐらい前に研いだから、あと15分ぐらいでスイッチオンかな」
「うん」
龍雅は妹に返事をしながら棚の上に置いてあった残りのエプロンに手を伸ばした。妹の背ではかなり背伸びをしないと届かない位置の物も、彼女ならば少し手を伸ばすだけで簡単に手が届く。
妹と同じように制服に身を包んだままの格好の上からエプロンを付けると、手を洗って夕飯の仕度を始めた。
しばらくすると、まな板の上で食材を刻む子気味いい音が台所の方から聞こえ始めた。
包丁が軽やかに舞うその音を心地いいBGMにしながら、龍那は宿題の答えを埋めるのを続け始めた。
「……ん?」
姉が夕飯を作り始めて20分位経っただろうか、宿題をこなす事に没頭していた龍那は姉が隣に腰を下ろしてくるのに気がついた。
「ふう、ちょっと休憩」
龍那が台所の方に顔を向けると「ジュー」と言う、肉と野菜の焼ける良い匂いがして来た。
フライパンだけでハンバーグを作る場合は、一旦強火で表面に焦げ目を付けたのちに火を落し、弱火でじっくりと焼く必要がある。そうしないと中のひき肉や微塵切りにした玉ねぎにまで火が通らないのだ。
丁度この間だけ時間が空く事になる。時間にして10分ぐらいだろうか。ひっくり返して裏側からも火を通さなければいけないので、合計で二〇分と言った処である。
普通ならこの時間を利用して、付け合せのキャベツを千切りにしたり、使い終わった食器等を洗ったりするのだが、こう見えても料理上手な龍雅は、既にその殆ど全てをやり終えていた。凄い手際の良さだ。
結局残りの作業はこのメインディッシュの焼き上がりと、焼き上がった後に残った肉汁を使ったソース作りしか無くなってしまったので、少し座っていようと妹が宿題を片付けるテーブルに来たのだった。
並んで座る姉妹。
しかも二人とも揃って学生服を着込み、更にその上からエプロンを着けているという、何だか「制服大図鑑」のような光景だ。
「りゅうな、洗濯物があったら今日の夜のうちに出しといて下さいね」
「え、あ、うん……あれ? でもどうしたの急に?」
龍那が不思議がって宿題に向かう顔を一旦上げた。
殆ど二人っきりの生活を起こっているこの姉妹は、掃除、洗濯、食事の用意等は二人で分担してやる様になっていた。今週の洗濯は、妹の龍那が週末にまとめてやる予定になっていたのだが。
「うん、明日うちの高校、開校記念日でお休みなんですよ。だからまとめてやっちゃおうと思って」
姉が妹の疑問に答えた。
「……そうなんだ……でもさぁ、せっかくのお休みなんだから、一日ゆっくりしてれば良いじゃない? 洗濯ならわたし日曜日にちゃんとやっておくよ?」
龍那が姉の事を気遣ってそう促がす。
「うん? まぁ、わたし一人休んでいるのもなんかもったいないですからね。それに明日のうちに家事を一通り終わらせておけば、日曜日は龍那も普通にお休みですからね。早い時間から二人でどこかへ遊びに行くっていうことも出来ますヨ?」
そう言いながら龍雅が優しく微笑む。
非常に真面目な性格の姉の事だから「今やらなくても良いよ」と言っても、突然休日になった明日も朝早くから起きて掃除と洗濯を済まし、自分が帰ってくる頃には夕飯の準備をしてくれているのだろう。その夕飯にしても準備にじっくりと時間を掛けたかなり手の込んだご馳走を用意してくれているに違いなかった。
何故、そこまで解かるのか?
それは龍那にしても、自分が今の姉の立場だったら間違いなく同じ事をしているからだ。
「……じゃあ、お願いするね、おねえちゃん」
龍那は自分が開校記念日で休みの時は同じ事をしようと思いながら、優しい姉に了承の答えをした。
「うんっ、お願いされましタ」
龍雅が嬉しそうに答えると、ふと、テーブルの上に視線を落とした。
「……うん? これは?」
テーブルの上に並べられた幾つかの紙片を眺めていた龍雅が、一つのプリントを手にとりながら口を開く。
「ん? ……ああ、それ」
龍那が宿題を進める手を止めて、姉の方に顔を向ける。
「明日うちの学校、授業参観があるのよ」
「へぇー、中学三年にもなって親御さんに後ろから見られるなんて大変ですねぇ……でも、まあまだ義務教育ですからねえ、中三と言っても」
自己完結の様な台詞を呟きながら龍雅がプリントに目を通す。
「でもうちは、おかあさんいないですし、おとうさんは殆ど航空隊の基地にいますからねえ、りゅうなには関係無いですか?」
「……」
姉のその台詞を聞いていると、先程まりあが言っていた事と同じような違和感を感じてくる。
お父さん、お母さん……その一人称は普通に暮らしていればごく当たり前の言葉の様な気がするのだが、自分には余りにも聞きなれない言葉の様な気がしてならない。
「……あの、おねえちゃん」
「ん?」
「……その、わたし今日の朝ってば、どっかに頭ぶつけたかなぁ??」
「はい?……たぶん、ぶつけてないと思いますよぉ?……というか、どうしたんですか、急に?」
龍那は思い切って訊いてみる事にした。
「……うちのお父さんって戦闘機のパイロットなんだよね?」
「はい?……そうですけど?」
「……うちのお母さんってわたしが小さい頃に死んじゃったんだよね?」
「ど、どうしたんですか?」
普段物事には余り動じない龍雅も流石に少し取り乱した。とりあえず妹のおでこに手を当ててみた。
「……熱は……ないみたいですね」
「……」
頭も痛くないのに、熱を測られても全然馬鹿にされたような気がしてこなかった。とにかく記憶があやふやになっている事は事実なのだから。
「う〜ん、とくにタンコブの出来たあとは無いみたいだけどなぁ〜?」
龍那が自分の頭を擦りながら、本当に困ったように呟く。
がしっ
「?」
龍那は行き成り自分の両肩を姉に掴まれた。
「??」
……ごちんっ!
龍那がこれから何が起こるのか考えるよりも前に、自分の額に姉の頭突きが炸裂していた。
「いたぁ〜いっ」
あまりの衝撃と痛さに涙目になりながら、赤くなった額を擦る龍那。
「いたた……いやぁ、もう一度衝撃を与えればちゃんと思い出すかと思いまして……」
龍雅が攻撃を食らわせた妹と同じように、自分の額を押さえながら答えた。
「もう〜、自分もおでこ痛くするぐらいなら、手で殴るとかすれば良いじゃないのよぉ〜」
妹が抗議の声を挙げる。普通なら「だったら初めから殴らないでよぉ」とか言いそうなものだが、そうはならないのが如何にも龍那らしい処だ。
同じように学生服を着て、同じようにエプロンを身に着けて、同じように額を押さえて涙目になっている姉妹……仲が良いと言うか、何だかなあ。
「……まぁ、そのうち思い出しますよ……りゅうなもわたしに似て随分ととぼけたところがありますからね、明日になれば思い出してますよ」
「……はぁ、まぁ姉妹揃って普段から天然ぼけなのは確かだけれども……でも、おねえちゃんがそう言うなら、明日には思い出してるかな?」
何か二人揃ってとんでもない事を、さらっと言っているような気がしますが、二人が良いって言ってるので、まぁ良しとしましょう。
だいぶ痛みの引いてきた龍雅が、妹に頭突きを食らわす際に一旦テーブルの上に置いた「父兄参観のお知らせ」のプリントに再び視線を落とした。
「……そう言えば父兄参観って言うくらいですから、親の代わりに兄とか姉とかが行っても良いってことですよね?」
紙片にしげしげと目を通しながら呟く。そして何かを思いついたように、ぽんっ♪と両の手の平を胸の前で合わせた。
「わたしが行きますよ、授業参観」
「……え?……ええぇ!?」
姉の突然の提案に思いっきり虚を突かれた龍那は、本当にビックリしたと言う声を上げる。
「どうせ明日はお休みですからね、それにこのプリントには午後からって書いてありますから、朝のうちに洗濯も掃除もささっと終わらせればだいじょうぶですよ」
「いや、その、だから……」と、明らかなうろたえを見せる龍那。
「ん? やっぱり家族の者に後ろから見張られるのは嫌ですか? ……だったらやめますけど?」
授業参観の参加の意思は生徒が決めるものではなく、参観する親族の者が決める事である。
だからこの場合、親の代わりに参加しようとする龍雅の事を、参観される側の生徒である妹が止める事は始めから出来ないのであるが、それでも妹の意思を尊重しようとするのは如何にも龍雅らしい処だ。
龍那は少し考えるような表情をしてから、口を開いた。
「……う、うん、そうじゃないの……わたし、今まで授業参観に誰かが来てくれたことなんて一度も無かったから、どうすればいいのか解からなくって……」
龍那のあやふやな記憶の中の両親……父は基地勤務が続き殆ど家におらず、母は生まれつき病気がちで龍那が小学校に上がるぐらいにその若い命を落としたと聞かされている……それが事実なら、龍那は生まれてこの方授業参観の際に後ろで両親に立たれていたと言う事が無い。
「それにおねえちゃんだって誰かに来てもらったって言うことないでしょ? ……わたしだけ来てもらうなんて、なんだか申し訳無いよ……」
ぽんっと、少し困り顔の妹の頭に手を置きながら姉が呟く。
「だから行くんですよ」
「え?」
驚く妹の頭を優しく撫でながら続ける。
「わたしの場合もほとんど、お父さんもお母さんも来てくれなかったんですけど、一度だけお母さんが来てくれた事があるんですよ、授業参観に」
「え? ほんとう??」
龍那の記憶には母は殆ど病院のベッドの上にいたと言う記憶しかないので、その病弱な母が普通に歩くという事さえ信じられないような気がした。
「うん、わたしが小学校に上がって始めての授業参観、お母さん今日は気分が優れるからって来てくれたことあるんですよ」
「……そうなんだ」
「だから申し訳無いのはわたしのほう……最後の授業参観ぐらい龍那にも誰かが後ろに立って、その勉強に向かう姿を見てあげられたらなって」
龍那はその時、姉の心の底から自分の事を大切に思っていてくれる気持ちを感じた。その優しい気持ちを身体にいっぱいに感じて、龍那はたまらなくなっていた。
「うん、おねえちゃんが来てくれるって言うのなら、わたし恥ずかしいのも一生懸命がまんしマス」
だから素直にそう答えた。
「先生が解かる人って言ったらちゃんと恥ずかしがらずに、元気にはーいって手を挙げなくちゃだめですよ?」
「はーい」
小さい頃から姉にそんな母親のような台詞を言われても、全然頭に来るような事も無かった。逆に嬉しさの方が大きかった。
「……あ、いけない、ハンバーグ焼け過ぎちゃいますね、はやく裏っ返さなきゃ」
龍雅がそう言いながら、すたすたと台所に消えていく。
龍那は再び台所に立った姉の後姿を見ながら、明日は嬉しいやら恥ずかしいやらの大変な一日になりそうだなぁと思っていた。
特別活動室、通称特活室。
普通の教室より一回り程大き目に作られたその部屋は、特に何かが置かれている訳ではなく、多目的に何にでも使えるようにと用意されている一室である。普通の学校なら一つや二つぐらいは必ずある。
今日はその特活室は、三年生の授業参観に来訪する親族の為の待機場所として開放されていた。部屋の中にまんべんなく折畳式の椅子が並べられ、授業参観開始よりも早くきた親御達が思い思いの格好で座っていた。
「……結構集まっているか」担当の教師が顔を出し、今現在の人数の把握しようとしていた。
大体六〇人ぐらいだろうか。この中学校は一学年4クラスと言う構成なので、各クラス事に割り振ると一クラス十五人前後という事になる。
「まぁ、普通かな」
授業参観中は教室の出入りは自由であり、途中から参加する人間も入れると相当な数になりそうだが、途中で帰る人間も多いので、結局出入りの差し引きで最初に集まった人数とほぼ同じ位で殆どの授業参観が終始進む。
「……おや?」
数を数えている最中だった教師は並べられた席に座る親族の中で、その最後方の左角の席に随分と見知った顔が居るのを発見した。
その者は中学生の子供が居るとはとても思えない若く張りの張った顔を下に向けて、何かを読みふけっているようだ。そしてその俯いた頭が、前や隣に座る中年女性よりも頭半分ぐらい飛びぬけている。それはかなり背の高いと言う証拠だ。
教師にしても、こんなにも遠くから見てもその背の高さが解かる程の長身の女の子なんて、自分の記憶の中にも一人しかいなかったので、他の誰かとも間違えようも無かった。
先程から熱心にその文庫サイズの本を読みふける、どう考えてもこの場にいるのは場違いな女の子の方に近付いてみた。
「村雨? なにやってんだこんな所で?」
「はいっ?」
聞き覚えのある自分の名字を呼ぶ声に反応して、龍雅は呼んでいた小説を膝の上に置きながら顔を上げた。其処には自分がこの中学の三年生であった時の担任の顔があった。
「あ、先生、お久しぶりですぅ〜」
そう言いながら、読んでいたページに栞を挟んで文庫本をスカートのポケットに詰め込むと、椅子から立ち上がった。そしてぺこっと小さくお辞儀する。
「……村雨……お前、また背が伸びたか?」
自分の目線の直ぐ近くまで上がってきた、かつての教え子の顔を見て、思わずそう口に出た。
教師は一八五センチの身長を持っていたが、目の前に立つ童顔の女の子は履いている靴の高さを差し引いても、自分を少し下回るだけの身長を持っているのは確かだ。あまり落す必要の無い目線の先には、彼女の両の耳たぶに可愛いデザインのイヤリングが揺れていた。
「ハイ、高校に入ってから一〇センチぐらい伸びました」てへへと照れくさそうに頭を掻きながら、龍雅が説明する。
「で、今日はどうした、そんなめかしこんで? それにお前は今は高校生なんだから学校もあるだろ?」
彼女は白いブラウスに淡い青色のフレアスカート、脚には五センチ程のヒールを履いた装いだ。今日の髪型は、ふくらはぎまである長い髪を下ろしている。ばらけないように後ろでリボンを使って留めている。
服装としては、普通これだけの身長を持つ者ならば、恥ずかしがってパンツスーツ系の服を選んでしまいがちだが、龍雅はそんな事は気にする事も無く、こう言った高い靴も長いスカートも、良く着こなしていた。
実はこう言う服装も、華奢で手足の長い彼女には意外に似合う。着ている本人は、気がついているのかどうかは不明だが。
「今日はうちの高校ちょうど開校記念日だったんで、妹の授業参観に父の代わりに来たんですよ」
淡い青のスカートを揺らしながら龍雅がそう答える。
「そうか、開校記念日か」
そこで教師もようやく納得したように頷いた。
良くサボりの口実として「今日は開校記念日」と街中で生活指導の者に答える学生が多いが、この龍雅という女の子の真面目さを知るかつての担任は、その言葉に嘘偽りの無い事が解かっていた。
が、「大変な妹思い」であるという事も知っていたので「妹の為に態々自分の学校を休む」と言う事も考えられたが、今の彼女の何の曇りも無い笑顔を見れば、それが行き過ぎた考えだと素直に思った。
「まぁしかし、授業参観も父兄参観って言うくらいだから兄や姉が来るのも良いんだが、それで本当に妹の授業を見に来るなんて、お前ぐらいだぞ」
台詞としては随分乱暴だが、教師は龍雅の妹思いの優しさを素直に誉めているつもりだ。
「エへヘ、そうですネ」
三年A組の教室。
廊下側の方に並ぶようにして、龍那とまりあが机を並べていた。
「……はぁ」
龍那は今日登校してからずっとため息を吐いてばかりだった。
「どうしたのりゅうな? 朝からため息ばっかりだよ?」
隣のまりあが心配そうな顔をしている。
まりあは朝から隣に座る親友に同じ質問を幾度かしていたのだが、その度に「うん、だいじょうぶ……」という、気の無い返事が返ってくるだけだった。
今日は授業参観だから緊張しているのか? とも思ったのだが、彼女の場合はそれはあまり考えられない。
まりあは龍那とは長い付き合いと言う事もあり、龍那の家庭の事情と言う事も知っていた。彼女の母は龍那が幼い頃病気で早くに亡くなっており、父親は航空隊のパイロットとして毎日忙しい日々を送っている。
だからこの「授業参観」と言う学校行事で、龍那が朝から浮かない顔をする必要など無い筈なのだが。
「……はぁ」
今日何度目かのため息を吐き出した後、観念したような表情で龍那がまりあの方に顔を向けた。
「……実は……」
「実は?」
まりあがオウム返しに訊いた時、教室の前の方のドアが開いて担任の教師が入って来た。午後の授業の始まりだ。
教師が姿を見せて教室内が急激に静かになる。普段なら、多少ざわつきが残りながら「静かにしろー」というお決まりの台詞を教師がいいながらの授業開始となるが、今日はその必要も無いぐらい、しんと静まり返っている。
それもその筈、これから自分達の背後に親御達が現れるのだ。この日ばかりはどんな不良もどんな問題児も借りて来た猫の様におとなしくなる。「所詮は子供」といった処だ。
まりあも続きが聞きたかったのだが、龍那が先生の登場と共に黙ってしまったので、それ以上の詮索は今はやめた。
何時もの何倍もの静かになった午後の授業の教室で、教師が二言三言授業参観の事について説明する。そして教師に促がされて、開け放たれたままになっていた教室の後ろのドアの方から父母達がぞろぞろと入って来た。
生徒達は一様に緊張の面持ちで、ちらっと後ろを少し振り返ったりしながら、教室の最後方が親御達で埋まっていくのを感じていたのだが、全ての父母が教室の中に入ろうかと言う時に、一人の女性が思いっきりドアの敷居に頭をぶつけていた。
その「ごちん!」と言う派手な炸裂音を轟かせた女性は、痛みに耐えかねてドアの入り口辺りにうずくまってしまっていた。
「いたたたた……中学校の敷居ってこんなに低かったでしたっけ……?」
その頭をぶつけた女性の前を歩いていた、生徒の母親の一人が、たまりかねたように手を貸した。
「大丈夫?」
「は、はい……だいじょうぶです」
自分の頭を擦りながら、その母親に手を貸してもらってその女性が立ち上がった。
「……あら? 随分大きいのねえ? これじゃぁ頭もぶつけるわね」
その女性は、助け起こした母親の一人よりも頭一つ以上大きかった。しかしその母親の感想は、生徒達の歓声、特に女子生徒達の黄色い声に掻き消される事となった。
「村雨先輩!?」一人の女子生徒が後ろに大きく振り向きながら声を上げた。
教室の後ろにはその生徒の母親ももちろんいる筈だったが、この村雨龍雅と言うかつての先輩の突然の登場は、そんな大事な事を一瞬で忘れさせていた。
その女子生徒を筆頭に、教室内が女の子の歓声で満たされ始めた。授業参観という、普通なら極度の沈黙と緊張を強いられる筈の学校行事の最中である教室内が、一気に騒然として行く。
この「学校」と言う幾分か閉鎖的な空間では、しばしば同姓が憧れの対象となる場合がある。そしてそれは女子生徒に色濃く出る。背も高く、しかもその長身を少しも臆する事も無く格好良く振る舞う龍雅という先輩の存在は、思春期真っ只中と言う女の子達には、格好の憧れの的だったらしい。
その女子生徒の歓声の中から男子生徒のひねた声も混じり出した。
「……あのデカ女、また学校に来てるぞ」
その不躾な台詞に隣の女子生徒がすぐさま反応した。
「あんた、そんなこと言って良いと思ってんの? みんなでぶっとばすわよ?」
そういって、きっと睨み付ける。
「あーこわいこわい」
そうふざけた台詞で直ぐに退散を決め込むが、その凄みのある女子生徒の声が明らかに本気の色を帯びているのも確かだ。ここはおとなしく黙っていた方が良い。
「こら! 親御さん達も見てるんだぞ! 静かにしろ!」
ようやく教師の一喝が入った。
「それと大きい方の村雨、お前相変わらず目立ちすぎだぞ」
「すいません」
龍雅がまだ少し痛みの残っている頭を押さえながら、ぺこっと頭を下げる。その教師と龍雅のやり取りを聞いて父母や生徒がくすくす笑う。
女子生徒達はもうちょっとかつての憧れの先輩の事を見ていたかったのだが、教師に静かにしろといわれては、もうそれに従うしかない。だが最後の抵抗として、この中で龍雅の突然の来訪と言う事実を事前に知っていたであろう者の方に、皆一様に視線を送っていた。
視線に気付いたまりあは、自分が代表してその事実を唯一知り得た者に訊いた。
「りゅうなが朝からため息ばっかり吐いてたのはこの事だったのネ」
まりあの問いに少し頷きながら答えた。
「……うん……なんか、すっごく恥ずかしくって……」
照れて先程から頬を赤く染めている龍那の直ぐ後ろには、その恥ずかしさの現況である姉が優しい微笑みを見せながら自分の後姿を見つめていたのであるが、俯いたままの龍那はその事実にしばらく気がつかなかった。
キーン、コーン、カーン、コーン……
今日何度目かのベルが鳴っている。
終業のベルは先程鳴っていたので、このベルは部活動等に参加しない生徒に向けて、早く帰宅を促がすためのベルである。
「ふ〜1日やっと終わったぁ〜」
今日は部活が休みだった龍那は、本日から係になっていた掃除当番を終え、下駄箱で靴に履き替えて昇降口に出た。
「?」
龍那は昇降口から歩いて出ると、校門の外に人垣が出来ているのを見た。どうやら自分と同じ三年の女子生徒が私服の女性を一人囲んで話し込んでいるらしい。
その話の中心になっている女性は、嬉しそうな表情の女の子達から頭一つ分以上飛びぬけていた。
そんな背の高い女性と言えば、自分の姉以外には考えられない。
「あれ? わたしのこと、待っててくれたのかなぁ?」
龍那はそう独り言を呟きながら、女の子の垣根の方に近付いて行った。
「センパイっ、高校の方ではサッカーは続けているんですか?」
満面の笑みの女子生徒が龍雅に質問する。
「うん、一応女子サッカー部のある高校を選びましたからね、今ではレギュラーでゴールキーパーをしてますヨ」
「えーすごーいっ」
「ちょっとあんた、それって前にりゅうなから聞かなかった?」
「えへへ、そうだけどさぁ、センパイから直に聞きたかったのよぉ」
「まあ、その気持ちもわからないでも無いけどさ」
「あははは」
そう黄色い歓声を上げる者達の一人が、此方に女子生徒が一人近づいてくるのに気付いた。
「お? やっとお姫様の登場ネ」
龍那の事を迎え入れるように人垣が割れて行く。
「さ〜て姉妹水入らずの邪魔はしちゃ悪いですからね、私たちはもうこれで帰りまぁーす」
一人の女子生徒の台詞に他の皆も、うんうんと頷く。
「え? いや、その、別にわたしに気を使わなくても良いのに……」
そう申し訳無さそうに呟く龍那にがしっと手を回しながら、その女子生徒が再び口を開く。
「だってセンパイはあなたの事を待っていたのよ? 一緒に帰ろうって。それを邪魔しちゃ悪いじゃない?」
確かに自分の記憶では、姉がまだこの中学に在学中の時は、自分が姉と一緒にいる時はみんな不思議と引いてくれていたような気がする。この中学のアイドルとも言える「村雨龍雅」という人を、自分だけで独り占めしているような気がして、申し訳なく思っていた。
でも他の子達は龍雅と龍那の家庭の事情を良く知っていたので、自分達にとっては龍雅は確かに憧れのひとでもあるけれどそれ以前に、龍那にとっては姉であり母親代わりであるという事を、皆尊重してくれていたのだった。
「じゃあ、村雨センパイまたですっ、りゅうなもまた明日ネ!!」
龍那に回していた腕を解きながら、女子生徒がお別れの言葉を言う。龍雅の事を囲んでいた他の娘達もそれに習うと、皆帰路について行った。
「ばいばぁ〜い」
龍那も大きく手を振った。後ろでは姉が同じように手を振っている。
「相変わらずみんな良い子たちですね……」
ぽんっと妹の肩を抱きながら、姉が優しく呟く。
「うん……」
龍那も友達の優しさを感じながら頷いていた。
「ねえ、りゅうな」
「はい?」
「今日は何か予定ありますか?」
「う、うん、何にも無いよ? 今日は部活も休みだし、学校終わったらまっすぐ家に帰ろうと思ってたもん、おねえちゃんのお手伝いしようと思って」
その妹の台詞を聞いて姉がにこっと微笑む。
「じゃあこれからわたしとデートしませんか?」
「え!? で、でーとぉ!?」
姉からの突然のデートの申し込みに、本当に驚いた様な声を上げる妹。
「そんな、実の姉に遊びに行こうって誘われたぐらいで、ビックリしないでくださいよぉ〜」
「で、でもぉ……」
自分の姉とは普段から一緒に買い物したり、中学の頃は部活動も同じであった事もあり、殆ど毎日一緒に帰宅していたりしたのだが、そう改まって「デートしましょ」といわれてしまうと照れてしまうのも確かだ。やはり龍那にしてもこの龍雅と言う女性は、血の繋がった姉であり同じ女と言う同姓であると同時に、自分にとっても憧れのひとであるという事実も大きいようだ。
「今日は朝のうちに掃除と洗濯は終わらせたんですけど、夕飯の仕度は出来なかったんで、今日はちょっと贅沢に外で食べようかと思ったんですよ」
にこにこしながらそう続ける。
「で、その夕飯の間までどこかで二人で遊んで過ごそうかなって思ったんデス」
「……そうなんだ……うん、おねえちゃんに誘われて、いやいやする子なんていないと思うよ?」
龍那も嬉しそうに答えた。
「うん、じゃあ行きましょう……でも、制服姿の女の子と歩くなんて、何だか贅沢ですネ」
「じゃあ、おねえちゃんも制服姿だったら、どうなっちゃうのかなぁ?」
「あはは♪」
そんな風におしゃべりしながら、本当に仲の良い姉妹が嬉しそうに街並みを歩き出した。
ふと、コンビニエンスストアの店先の辺りで、姉が立ち止まった。
「?」
龍那が突然停止した姉に向かって、不思議そうに顔を向ける。
「ねえ、りゅうな? 何か少し飲み物を飲みたくないですか?」
「うん?……そう言えば」
今日は髄分と温かく、少し歩くと汗がにじむほどだった。これからかなり長距離を歩く事になると思うので、今のうちに水分を補給しておきたい処だ。
「それに昨日コーヒー牛乳飲もうと思ったら、りゅうなが随分と飲んじゃってましたからねぇ」
「わぁ、ごめんなさい」
「う、うん、りゅうなは成長期だから、もっとカルシウムは採ったほうが良いんですけど、しかしこの小さいお腹のどこにあんなに入るんですかねぇ?」
龍雅が手を伸ばして、不思議そうに妹のお腹を撫でる。
「ははははは……」
龍那も照れくさいやらくすぐったいやらで、困った笑い顔を浮かべながら、素直にお腹を撫でられていた。
妹のお腹を撫でていた手を離すと、龍雅は自分のスカートのポケットの中に手を突っ込んで財布を取り出した。口を開いて中身を確かめる。
「……六五円」
十円玉と五〇円玉と五円玉が一枚ずつしか入ってなかった。
「う〜ん、これはちょっと銀行に行ってお金を下ろさないといけないですねぇ」龍雅が残念そうに呟く。
銀行に行けば父親が振り込んでくれている普通に生活するには充分なお金があるのだが、其処まで行っていると、このコンビニエンスストアまではかなりの遠回りをして戻ってこなくてはいけなくなる。まあ、単純に水分の補給がしたいのなら、銀行近くの自販機でジュース等を購入すれば良いのだろうが。
「あ、ちょっと待って」
龍那が何かに気が付いた様に制服のポケットに手を突っ込むと、なにやらごそごそし始めた。
「はい」
ポケットの中から出てきたその手の平には、十円玉が四枚載っかっていた。
「とりあえずこれがわたしの全財産」
姉が持っていた六五円と、妹の持っていた四〇円。二つ合わせれば一〇五円になる。これで百円のジュースを一つ購入出来る計算になる。
二人揃って両の手の平を、ぽんっ♪と合わせながら頷くと、いそいそとコンビニエンスストアに揃って入っていった。
しばらくして再び店内から二人が姿を表すと、姉の手には黄色いカラーリングの紙パック、妹の手にはストローが二本握られていた。
「やっぱりコーヒー牛乳も美味しいですけど……」
「やっぱりバナナ牛乳も美味しいよネっ」
「しかし店員さんに無理いってストローを二本もらっちゃって、なんだか申し訳なかったですね」
「エヘへ、そうだネ」
龍雅が黄色い紙パックの口を開けた。その開いた口に龍那が二本のストローを差し込む。
妹に届くように身を屈めながら、龍雅が片方のストローを咥える。姉の身体に掴まるようにして背伸びをしながら、龍那が残りのストローを口に入れた。
しばし身体を寄せ合って、バナナの甘さの混じった乳飲料を味合う二人の姉妹。
「……はぁ、美味しぃ〜」満足したように同時に口を離すと、二人で可愛い二重奏を奏でた。
龍那は姉の微笑を見せる横顔を見上げると、自分も心の底から嬉しそうな顔をしながら龍雅の腕に抱きついた。
「ん? どうしました?」
自分の腕に抱きついてきた妹に、姉が問う。
「うん……しあわせだなぁって思って……」
し・あ・わ・せ
龍那の頭の中に四文字の言葉が浮かび上がる。
……これが幸せって言うのかな……大好きなおねえちゃんと一緒に歩いて、何気なく毎日が過ぎていく……これがわたしの望んでいた幸せ……
龍那はちょっと悪戯っぽく姉の背中に抱きついてみた。
「どうしました?」
「うん……ちょっとね……」
姉の大きな背中に顔を寄せると本当に幸福を感じる事が出来るような気がした。
「……?」
その時唐突に、姉の背中にくっ付けていた頬の辺りに、何か不思議な違和感を感じた。
「?」
何か、違う感覚を感じた姉の肩甲骨の辺りに、手を伸ばしてみた。
「……?」
普通に考えればごく普通な肩甲骨だ。だが「確かに自分の知る姉」の肩を繋ぐ骨は、普通の者とは幾分か違う物をしていたような気がする。
龍那は自分の背中に手を回して自分の肩甲骨の辺りを触ってみた。
……違う……
姉の背中の骨とは明らかに違う骨の作りをしている。ちょうど肩甲骨の部分に、球の様な物があるような感覚。
龍那はその時、姉の耳に揺れるイヤリングを目にした。
姉の顔の横から生える丸い耳に付けられた耳飾。
その美しい耳飾は普段の姉の存在からは程遠い様な気がした。
それは「姉が普段は身に付けないものを付けている」と言う事ではない。それはあたかも「本来自分の姉が身に付ける事が不可能な物を身に付けている」と言う、一種異様な趣があった。
姉が振り向いた。
「どうしました?」
そう優しげな言葉を投げ掛けながら振り向く姉の笑顔は、何時もと変わらない様な気がした。
「しあわせなんじゃないんですか?」
聞き慣れた筈の姉の声が、酷く遠くから聞こえてくるような気がした。
し・あ・わ・せ? ……これが、しあわせ……?
その時龍那は背中に凄まじいまでの熱さを感じた。
それはまるで、背中に入っている球が発熱しているかのような、身を焦がされるような感覚だった。
「……!? ……あああああ!!!」
龍那はその高熱に耐えかねるようにして絶叫を発しながら、その場に崩れ落ちるように膝を付いた。
何かが爆ぜる音。赤黒い炎。熱い感覚。
自らの身体から吐き出される高熱に悶え苦しむ龍那の背中に、黒い焔で出来た翼が舞い広がった。
「あああああ!!!!!」
その翼から何枚か黒い焔の羽が抜け落ちた。抜けた羽は地面に落ちた瞬間に、儚く燃え砕けた。
「……」
龍那が悶え苦しむ顔を姉に向けた。
そこにはただ微笑んで佇むだけの龍雅の姿があった。
「……すん……ぐすん……」
少女が泣いていた。
その身にこれから降掛かろうとする恐怖と絶望に、小さい身体を震わせていた。
「おいお前! その耳動かして見せろよ!」
好奇心に彩られた声が、少女に指示を飛ばす。
「……ぐすん……ぐすん……」
だが、その身体を恐怖で支配された少女は、まるで凍りついた様にまったく身体を動かせないでいた。迫り来る恐怖に耐え、ただ涙を流す事しか出来ないでいた。
誰かの手が少女のふさふさとした大きな耳を掴んだ。
「動かせって言ってんのが、聞こえないのか!」
大声で怒鳴りながら、少女の猫の耳が引き千切れるぐらいの勢いで引っ張り挙げた。
「……いたい!!!」
突然の激痛に、少女が嗚咽以外の声を始めてあげた。痛みに耐えかねた彼女の耳が、ぶるっと小さく欹たった。
「あはははは! 動いた動いた! やっぱり本物の猫とおなじなんだなぁ!」
「はははは、コイツ、偉そうに恥ずかしがってるぞ、人間でもないくせに!」
子供達の嘲笑がこだまする。
「……ぐすん……ぐすん……」
少女の胸の中が、悔しさと惨めさに徐々に支配されていく……
リュウナは何故此処にいるのか解からなかった。気付いた時には人間の子供達に取り囲まれていた。
自分の事を見下ろすその顔には、皆一様に好奇心の表情が張り付いていた。
「……ぐすん……ぐすん……ゆるして……」
恐怖で震える小さい唇が、何とか嗚咽と絶叫以外の声を絞り出そうとした。
「……ゆるして……わたし、なんにもわるいこと、してないよ……」
大きな瞳から涙をぼろぼろ零しながら、そう切願する。
「ゆるしてだぁ? お前みたいなディフュームが、おれたち人間にそんなこと命令できると思ってんのか!」
一人の子供がそう言いながら、再びリュウナの耳を掴んだ。ぎりぎりと引っ張り上げる。
「いたい! いたい!」
強烈な痛みに耐えかねて、幼い身体が引っ張られる耳に吊られるように持ち上がる。
リュウナを取り囲んで辱める人間の子供達は、明らかにホビット族である彼女の事を、自分達と同格の生命体と認識していない。
「ディフュームは人間ではない。人間では無い者をどうしようと人間の勝手である」
大人達が定めた「人間達のルール」は、こう言った子供達にまで浸透していた。
人間達は非常に非力な存在ゆえ、たとえ同じ人間であっても類稀なる力を持った者を普通の人間はあからさまに疎ましく思い、妬み、化け物扱いし、迫害しようとする。
体力、敏捷力、思考力、そして寿命……全ての者が人間を遥かに超える力を持っているディフュームを、人間達はあからさまに拒絶していた。
古くから人間達は自分達よりも高い能力を持つ物を追い落とす事によって、その非力な存在を「生命の霊長」とする事を、可能としてきた。
そして目の前に現れた、自分達を全ての面において上回る生命体、龍人……ディフューム。
人間達の頭の中には「共存」と言う二文字は初めから存在しなかった。
自分達よりもあらゆる点で優れる者達に、いつまでも地上の覇権を握られるのを良しとしないからだ。
「いたい! いたい!」
リュウナの大きな耳を引っ張る力が強くなる。
子供達は彼女の上げる悲鳴も、自分達と同じ生命体が上げる悲鳴とは露ほども思っていないのだろう。
ただ、目の前に玩具が転がっている。自分達はその玩具で遊んでいる。そしてその玩具も壊れたらそのまま捨ててしまえば良い……それぐらいの存在としてしか、目の前で泣き叫ぶ少女の事を認識していなかった。
「ほら、こんどは尻尾をうごかしてみろ!」
誰かがそういいながら、リュウナの長い尻尾を掴んだ。ぐいぐいと、此方も千切れるほどの勢いで容赦なく引っ張る。
「いたい!! いたい!! いたい!!」
リュウナがその小さい口を開いて必死に吐き出す絶叫が、更に大きくなる。
「……いたい……」
その頭と腰から送りこまれる激痛に遂に耐え切れなくなり、リュウナが半分気を失うように地面に倒れた。
「こいつ、これぐらいでたおれやがって!……ん?」
子供達の視線が、リュウナが倒れる際に大きく捲くれた、短いスカートの中から覗いた物に集中した。
少女の無垢さをあらわすような飾り気の無い白い下着。そしてその白いショーツに包まれたふっくらと柔らかそうなお尻のライン。
子供達はその突然さらけ出された亜人の少女の白いヒップに、一様に見入っていた。それは人間の女の子となんら変わらない様に思えた。
そして目の前で倒れる女の子が「人間の女の子では無い」という事に気付くと、子供達の顔に邪なる感情が浮かび上がってきた。
「おい! こいつ、ディフュームのくせにパンツまではいてるぞ!」
「パンツの中も人間と同じか、しらべてみようぜ!」
「そうだ! そうだ!」
人間の子供達は今まで玩具にして来たディフュームの少女の事を、今度は自分達の性欲望を吐き出す為の遊戯具として使用する事にした。その顔にはこれから嬲りを楽しもうとする下卑た表情が貼り付いていた。それはとても子供の顔とは思えないような醜さだった。
一人の子供がリュウナの短いスカートに手を掛けた。
「……いやぁ……いやぁ……嫌ぁ!!!」
リュウナが泣き叫ぶ。
「……だれか……だれか助けて……」
「助けなんか呼んだってだれも来るもんか!」
そう嘲り笑いながらリュウナのスカートを毟り取ろうとする。
……その時
「ぎゃぁぁぁあ!!!」
リュウナのスカートに手を掛けていた子供が、突然その頭から猛烈な勢いで血を噴出させながら叫び声を上げた。ドスンと音を立てて地面に倒れた時には、既に絶命していた。
その頭は、なにか遠くから飛んできたものに半分以上砕かれ、残った頭蓋からは脳髄が気味悪く飛び出していた。
「!?」
子供達は何が起こったのか解からなかった。一瞬の空白が襲う。
そして現在の状況にやっと思考が追いついてくると、何者かが遠くから投げた石のような物によって、自分の仲間の一人が瞬時にして殺されたという事実を理解した。
子供達は石の飛んできた方向に目を向けた。其処には一人の背の高い少女が、風に髪とスカートを靡かせて立っていた。
「……」
感情のまったく感じられない表情をした少女。その身体からは、猫の耳と尻尾が生え、一緒に風に靡いていた。
「……おねえちゃん」
恐怖を訴える絶叫を上げ続け、枯れ果てた喉から、リュウナは必死にその言葉を紡ぎだした。
「……お姉ちゃんだとぉ!?」
子供達は自分の仲間を一瞬にして殺した相手が、今まで玩具にしていた亜人の少女の仲間と知ると、今まで呆然としていた感情が、すぐさま激昂に埋め尽くされた。
「お前!! こんな事していいとおもってんのか!!!」
子供の一人が怒り交じりの叫び声を上げる。先程までリュウナの事を嬲り殺そうとしていた者とは思えない、随分と自分勝手な台詞だ。
「……!? どこ行った!?」
子供達が、新たなディフュームの少女が現れた場所に目を向けると、既に其処には誰もいなかった。
「……なんだ!?」
一瞬何かが、自分の前を物凄いスピードで通り過ぎるのを感じた瞬間、胸に軽い衝撃を感じた。
「……」呆然と自分の胸を見下ろす子供。
其処には自分の胸に手刀を、叩き込む背の高いの少女の姿があった。
人間の子供程度ではまったく見切れないほどの凄まじい敏捷力を見せたリュウガは、一瞬にして相手の懐に飛び込み、その胸を手刀で貫いていた。
血で真っ赤に染まった手を引き抜くと、胸に穴をあけられた子供が、糸の切れた操り人形の様に倒れた。
「……」残った子供達に、リュウガがゆっくりと顔を向ける。
「……ひっ」
まるで死神にでも睨まれたかのように、子供達が情けない悲鳴を上げる。
リュウガがゆっくりと歩を進めていく。
今度は人間の子供達が恐怖と絶望で動けなくなる番だった。皆一様に、がたがたとその身を震わし始めている。
そんな中で恐怖に支配され始めた子供の内の一人が、まだ抵抗を見せようとしていた。地面に倒れたままだったリュウナの耳を再び掴むと、強引に立たせた。痛みで彼女の顔が再び引きつる。
「こっちに来るなぁ!! こいつがどうなってもいいのかぁ!!!」
どうやら、リュウナの事を人質にして、何とかこの状況からの脱出を計ろうと言うつもりらしい。
「……!?」
だが、その子供が見た次の光景は、鮮血を飛ばしながら腕から離れていく、少女の耳を掴んだままの自分の左手だった。
妹の耳を再び人間の子供が掴んだのを見たリュウガは、すぐさま子供達の間合いの中に飛び込んでいた。そして相手がまったく反応できない内に、妹の耳を掴む子供の手を、その高速の手刀を以って切断したのだった。
だが、腕を切られた子供は痛みの叫びを上げる事が出来なかった。
リュウガが、その腕を落とした手刀の返す刀で、子供の首から上を切り飛ばしていたからだ。
ゴトンと首が地面に転がる。その音を合図にして、背の高い少女の殺戮が始まった。ある者は首の骨を一瞬にして折られ、ある者は腹に手刀で風穴を開けられ、次々と醜い骸と化していった。
そして最後に残った子供が頭を鷲掴みにされて、高々と抱えられていた。
「……たすけて……たすけて……」
掴まれた子供の口から、嗚咽交じりの慈悲を願う声が聞こえてくる。
「……あそこに座り込む猫の耳を生やした少女も、あなた達に同じ事を言った筈です……なぜあなた達はあの少女のことを解放してあげなかったのですか……」
リュウガが始めて口を開いた。それはその表情と同じく、まったく感情を感じる事が出来ない声をしていた。まるで死に行く者を招き入れる、地獄の使者のような響きだった。
「……ゆるして……もうしませんから……」
人間の子供が発したその切願の台詞が、リュウガの中の怒りの感情に更に火をつけた。
「もうしません?……人間はそうやって昔からその場だけ取り繕って、結局は後々になって再び同じ事を繰り返す……破壊神によってこの大地が荒らされたのも、あなた達人間がみんな、そんな自分勝手な考えで動いていたからでしょ?」
ぎりぎりと、子供の頭を鷲掴みにする手に力を込める。頭蓋骨が軋む、嫌な音が聞こえて来た。
「……たすけて……ゆるして……」
もうリュウガには人間の子供の声は聞こえていなかった。
彼女の背中で何かが爆ぜる音が聞こえた。
その身体の中につけられた怒りの火は、今まで自分自身で封印していた力にまで、火を灯してしまった。
「……」
リュウナはその時見た。姉の背中に舞い翻った黒く光り輝く焔の翼を。
人間の子供を掴んでいる腕に、焔が纏わり始めた。それはリュウガの背中に生えた翼から送る込まれる、壮絶なる黒い焔の力に違いなかった。
「……人間なんてこの世からみんないなくなっちゃえば良いのよ!!!」
愛する妹を辱められたと言う事実が、リュウガの中の普段は決して見せない凄まじいでの残酷な感情を露わにさせた。
焔が子供の身体に燃え移ったかと思うと、次の瞬間それは天高く燃え上がる焔の柱となった。
凄まじいばかりの高熱に焼かれ己の消し炭すら残せずに、哀れな人間の子供は一瞬にしてこの世から消滅した。
「……」
後には背中から生えた大きな翼を風に翻させる、一人の少女だけが残った。翼から何本か焔の羽が抜け、地面に燃え砕けるように落ちていった。
「……」
その神々しいまでの姿は、まるで天から舞い降りた天使のようだった。
いや、正確には、自ら悪魔となって敵と戦う為に地上に舞い降りて来た、背中の翼を黒い闇で染めた天使、堕天使のようだった。
残酷な美しさ。
その翼が、その血に汚れた服が、そしてその表情が、背の高い少女に一種異様な妖艶さを与えていた。
「……」
全ての脅威を排除したリュウガが、先程から地面に座り込んだままの妹の方に顔を向けた。
リュウナは背中に焔の羽を生やした姉の事を見つめたまま、人形の様にまったく動きを止めたままだった。大きな耳には、姉によって切り落とされた人間の子供の手をぶら下げたままで。
その左手からだらだらと先程から血が流れ、地面に血溜りを作っていたが、その事にも全然着が気付かないかのように、じっと姉の事を見つめたままだった。
まるで悪魔に射竦められた、哀れな生贄の様に。
「……」
リュウガは無言で妹に近付くと、妹の耳を掴んだままの左手と、リュウナの小さい頭に手を掛けた。
「……ちょっと、がまんして……」
そう断ってから、リュウナのふさふさとした猫の耳を掴んだままだった人間の子供の手を引き剥がそうとする。切断される直前に相当力を入れていたらしく、その左手は物凄い力で彼女の耳を掴んでいた。
妹の耳から強引に左手を剥ぎ取ると、遠くに投げ捨てた。
「……痛い」
自分の耳を強く掴んでいた物を引き剥がされる際に発生した激痛を感じて、リュウナは余りの恐怖で停止していた思考をようやく再開させた。
「……リュウナ」
妹の名を呼びながら、優しげに手を伸ばす。
「……」
妹は、恐怖に支配されつづけたその瞳を、姉に向け続けていた。
「……」
人間の子供達の返り血を身体中に浴びた姉の姿。
本能的に恐怖を感じたリュウナは、姉が差し出してくれた、その血に汚れた手を取る事が出来なかった。
姉も血に汚れた手を自分の衣服で拭って差し出してくれたのだが、その手には拭ったぐらいでは取れない程に、人間の子供達の赤い血が染み込んでいた。
「……リュウナ」
リュウガは先程と変わらず優しげに、妹に手を差し伸べるだけだった。
……そう、只ゆっくりと時間が過ぎるのを待っているかのように……
止まった時間の中、彼女の焔の翼だけが、優しく肌を撫でる風に揺れていた。
一体あれからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
二人の姉妹はじっと見詰め合ったままだった
妹は先程から射竦めらたかのように、小さく身体を震わしたままだった。
姉は只ずっと妹の身体から恐怖が消えるのを待っていた。
ずっと……ずっと……
本当は見せてはいけない筈だった、黒い焔の翼を舞い翻したまま。
ずっと……ずっと……
「……リュウナ」
姉が再び妹の名を優しげに呼ぶ。
「……おねえちゃん」
リュウナがやっと反応した。
視線の先の姉の姿。返り血で真っ赤に染まった衣服。泥に汚れた足元。そして、人間の血を浴びて焼け爛れた白い肌。
姉はそんなぼろぼろの身体になっていても、妹に優しい笑顔を送りつづけていた。
「……リュウナ」
今日何度目かの妹の名を呼ぶ声。
「……!!」
その、もう何度目かも解からなくなった自分を呼ぶ声が、リュウナの中の姉を想う気持ちを再び呼び覚ました。
「……あ、ああ、あああ、あ……」
リュウナは再び泣き出していた。ぼろぼろと大きな瞳から大粒の涙を零した。
そして涙を流すと同時に、自分の中に沸き起こってきた気持ちに正直に答える為、血に汚れた姉の身体に抱き付いていた。
「……おねえちゃん……ごめんなさい……ごめんなさい……」
泣きじゃくりながら、涙の止まらない顔を姉の胸に埋めた。
「……だめですよリュウナ、そんなに強く抱きついちゃ……あなたの身体にも血が付いちゃう……」
リュウガはそう言いながらも、やっと反応を示してくれた妹の頭を優しく撫でた。痛々しく焼け爛れた手を、ゆっくりと動かす。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……おねえちゃんが、こんなにも自分の身体を血で汚しているのは……わたしを守ってくれたからなのに……わたし、おねえちゃんのこと……怖いって思っちゃった……」
姉の服についた人間の酸性を帯びた血液が肌に触れると、まるで火傷をしたかのようにひりひりと皮膚が痛くなってくる。でも今は、それが心地良いと感じた。姉と痛みを共有できるのだから。
リュウガが自分の翼で妹の身体を優しく包み込んだ。
リュウナは始め、包み込まれたその焔の翼で、自分の身を焼き尽くされるかと思った。
でも、それでも良いと思った。
理由はどうであれ、一瞬でも大好きである筈の姉に恐怖を感じてしまったのは自分なのだから。
しかし、自分の身体を優しく包み込んでくれたその焔の翼には、身を焦がすような熱さはまったく無かった。不思議な優しい温かさに包まれていた。
そしてその温かさは姉の心の温かさと同じなんだと思った。
血塗れの姉妹は、暮れなずむ夕日の中を帰路に着いていた。
リュウナは姉の背に、背負われていた。リュウガは泣きつかれておとなしくなった妹を、只黙って自分の背中に乗っけていた。
「……おねえちゃん」
妹は姉の優しさを感じながら、その背中で揺られていた。
「……?」
リュウナは、自分を背負って丸くなった姉の背中に、何か球の様な物が二つ膨らんでいるのを見つけた。
……こっからあの黒い羽が生えてたんだ……
そう思った時、自分の中に一つの疑問が沸き起こってくるのを感じた。
「……」
リュウガは、他人とは違う自分の身体の一部に触れられても、無言だった。
「……おねえちゃんにあるんだから、わたしにもあるよね……」
独り言のようにその疑問を呟くと、リュウナは姉と共有出来る物を求めて、自分の背中に手を回した。
「……あ、あった」
両肩の肩甲骨の辺りにある、一つずつの丸いふくらみ。
「エへ、良かった……おねえちゃんだけにあってわたしに無かったらどうしようかと思っちゃった」
リュウナが微笑んだ。
久しぶりに聞けた彼女の笑顔の声を聞いて、姉が決心したように呟いた。
「……見られちゃいましたね、わたしの翼……」
「あ……」
リュウガの言葉は、本当に見せてはいけないものを見せてしまったと言う響きで、奏でられていた。
「リュウナ、あなたにも話しておかなければ、いけないですね……」
「……え?」
姉が妹を背中に乗せたまま、重い口を開き始めた。
「わたしが子供の頃の記憶をほとんど無くしちゃったのは、前に話しましたよね……」
「……うん……前にあった戦争の時に無くしちゃったって、言ってたよね……」
「……わたしはその時全ての記憶を失ったはずでした……でも忘れたくても忘れる事の出来ない記憶が一つだけあります……それは、何故わたし達姉妹が生まれてきたかと言う事……わたしの記憶の奥底に深く刻み込まれた、絶対に忘れてはいけない記憶……お母さんがくれた、この命の記憶……」
リュウガが、もうこの世にはいない母に思いを馳せるように呟いた。
「……わたしは……この何ものをも焼き尽くす力を持った龍の焔を操るために作られた制御装置……そしてその力を使って破壊神と戦う事を運命づけられた、もう一つの破壊神……そしてあなたはわたしが壊れて使えなくなった時のために用意された、予備の部品……」
「……予備の、部品……」
姉に突然告げられた、自分の本当の存在理由。
「……わたし達の身体を作る素になった細胞は、遠い昔にその龍の焔を制御する者を作り出すために用意されていた物……そしてお母さんはその龍の焔を操りし者をこの地上に生み出すために自分の身体を改造して、この世に一人の赤ん坊を産み落とした……それがわたし」
「……」
「そして、お母さんはわたしを生む事によって相当寿命をすり減らしても、もう一つ残った細胞を自分の身体に身ごもる事をやめる事はしなかった……そしてお母さんの命と引き返しにして生まれてきたのが、あなた……リュウナなのよ……」
今、姉の口から開かされる真実。
「わたし達の記憶に、お父さんという存在がまったく無かったのもその為……初めからいなかったのよ、お父さんなんて……わたし達には……」
しかし、その衝撃の事実を聞かされても、妹は只黙って姉の背中で揺られていた。
まるで揺り動く運命に、ただじっと身を任せるように……
「わたしの身体は限界まで力を発揮できるように全ての制限を外されて生まれてきました……でもあなたは違う……あなたの身体には生まれながらにして力に封印がかけられ、その龍の焔の力は封じられている……それはあなたがわたしが使えなくなった時の為の予備の部品だから……だからあなたはわたしの様に目立ってはいけない……そしてあなたの身体はわたしが死んだ時初めてその制御が外れ龍の焔が使えるようになる……それがあなたの役目だから……」
姉の口から語られる悲しげな真実……記憶を無くしてどれだけの楽しい思い出を失っても忘れる事が出来なかった、自分達の命の記憶……
「……恨みますか、残酷な運命を……残酷な母を……」
今まで黙って姉の話を聞いていた妹が口を開いた。
「……さっき、その黒い焔の羽を見せてくれたおねえちゃん、すごく格好良かった……すごく綺麗だった……まるで天使さまが降りてきたのかと思った……」
「……リュウナ」
妹の口から出て来た言葉に、姉が戸惑いを見せた。
「……本当におねえちゃんが死ななきゃわたしには使えないの、その力は……?」
「リュウナ……」
「わたしも使いたいよ……わたしもおねえちゃんのように、誰かを守るためにその力、使いたいよ……」
「……」
「わたし、自分が生まれて来た理由も、それにお母さんのことも、全然恨んでなんかいないよ……だってお母さんは自分の命を懸けてでもわたしのこと生んでくれたんだもん……大好きな、大好きな、おねえちゃんの妹として……」
そういいながら姉の背中に向かってにこっと微笑む。
「わたし、お母さんともし逢えることがあったらいいたいよ。わたしのことを生んでくれてありがとうって、おねえちゃんの妹にしてくれてありがとうって」
「リュウナは本当、優しいですね……」
「それはおねえちゃんの妹だからだよ、わたしおねえちゃんに優しさをいっぱい貰ってここまで大きくなったんだもん」
その台詞を聞いてリュウガが随分と久しぶりに微笑んだ。
二人の姉妹が久しぶりに笑顔になった。ようやく、何時もの仲の良い、明るく優しい姉妹に戻れた。
「……リュウナ、あなたの中に誰かを守りたいという強い気持ちがあれば、わたしと同じように、その何ものをも焼き尽くす黒い焔の翼を広げる事が出来ますよ……そのどんな運命にも屈しない優しさがあなたの中に有り続ければ、奇跡だってちゃんと起きますよ」
「うん……」
……そうだ、思い出した……わたしがまだ子供の頃におねえちゃんが話してくれたこと……わたし達の命の記憶を……黒き焔の翼の……絆を……
「……くそぉ!!!」
副長は二人の身体から発せられる物凄い力場に阻まれて、それ以上接近出来ないでいた。
ブライドファントムのレナスではない別の何者かに身体を乗っ取られたティアは、左腕に気を失ったリュウナを抱き抱えたまま、先程から超常なる魔力を発揮していた。彼女はティアの瞳から放たれた閃光を浴びた後、一瞬にして気を失ってしまっていた。
副長ほどの戦士でもまったく接近を許さない、尋常ならざる力の力場に二人は包まれている。これはティアの身体に憑依する者が、リュウナの身体に秘められた強力な魔力を、自分のものとして強引に引き出しているからに違いなかった。
「……フフフ、お前は其処で、この魔法使いが己の夢に食い尽くされる所を、ただ何も出来ず見ているが良い!!」
桜色に彩られたティアの口から、この世の者とは思えない、しわがれた低い声が吐き出される。
「この村を制圧する時には、このレナスと言う魔法使いに不覚を取ったが、それも今日この瞬間で終わりだ」
何者かに支配されたティアの口が妖しく歪む。
「俺はレナスに殺される直前、己の身体だけを次元の狭間に送り込み意識だけ分離させ、何とか生き延びた。その後残留思念となったレナスの魔力を手に入れた俺は、その力を使ってディフュームどもから血を吸い上げ、次元の狭間に眠る俺の身体に送り込み、今まで延命を計って来たのだ」
「……ちくしょう!! お前の好きになんかさせるかぁ!!!」
副長が雄叫びを上げる。何とか前に進もうとする。両腕に一振りずつ構えた長剣が力場に触れ、ガタガタと揺れる。
「ふん、鳴かずば鳥も落とされまいと言うのに……そこでおとなしくしていれば少しは長生き出来たものを!!」
ティアの白い手袋に包まれた右腕が、ゆらりと上に持ち上げられた。そして一瞬後、持ち上げられた指先から電光が放たれた。
「うわぁぁぁぁぁ!? あああ!!!!!」
ライトニングボルトの呪文が副長の身体を貫いた。
凄まじいまでの電流に翻弄され、膝が地面に落ちる。
「……ぐぅ」
だが、普通の者ならば即死してしまうほどの電撃呪文を食らっても、黒龍師団と言う帝国最精鋭の戦闘集団で戦い続けていた副長の肉体は、それに耐えた。
「……副長ぉ!!!」
電激の呪文に打ちのめされた副長の元に、血相を変えて三人の妖精が飛んで来た。
「副長ぉ!!! しっかりしてよぉ!!!」
シルフィが涙混じりの絶叫を上げる。
「……逃げろ……早く……逃げろ……お前達まで巻き込まれる……早く逃げろ!!!」
副長は何とかそれだけ喉から搾り出すと、剣を支えにしながら再び立ち上がろうとする。
「……ふん」
既にティアの物では無くなっているティアの瞳が、濁った光を放ちながら、つまらなそうにその光景を見ていた。
「もうすぐだ、この女もレナスと同じように俺の夢食いの魔法に全てを支配される。この女が持つ程の強大な魔力があれば、次元の狭間に眠る俺の身体を取り戻す事が出来る……俺は復活できるのだ!!!」
「……だから?」
「!?」
ティアの身体を支配する人間の魔法使いの意識体が、ティアの頭を声のした方に向けさせた。左腕に抱かれたままの筈のリュウナが、はっきりとその大きな瞳を開いて、此方を見つめていた。
「!? 何故だ!? 何故俺の夢食いの魔法が効かん!?」
意識体はティアの身体を飛び退かせた。
身体の拘束を解かれたリュウナは直前まで意識を失っていたとはとても思えない様に、しっかりとした足取りで其処に立っていた。
「何故だ!?……何故、永遠の時を安らかなる幸せの中で過ごす事を望まない!? 何故、甘美な夢の中で過ごす事を望まない!?」
「甘美な、夢?」
オウム返しに呟きながら、リュウナが亡霊に支配された花嫁に近付いて行く。
「……大好きな姉と一緒に、なにごともなくごく普通に一日一日を過ごしていく……それは確かにわたしにとっては一番の夢だわ」
リュウナが自分の気持ちを汚した憎むべき相手に向かって、歩を進めていく。
「でもね、わたしには役目があるのよ……あなたのおかげで思い出したわ、自分の役目を。おねえちゃんが死んじゃった時に、その代わりをするって言う役目を。おねえちゃんの代わりにその黒き龍の焔で破壊神をやっつけるって言う役目を……だからわたし一人、自分の夢に溺れ続けるなんて、出来ないのよ!!!」
ティアに憑依する意識体が目の前の小柄な魔法使いに気圧されるように身体を後ずらさせた。
「……だ、だが、どうする、この憑依した身体、今のお前の減少した魔力では俺とこいつを分離させる事は出来ないぞ」
意識体が最後の抵抗を見せる。確かにこの人間の意識体はレナスと言う強力な魔導士の残留思念を手に入れて、強大な力を得ている。そしてリュウナも先程意識を失った時、この意識体に相当量の魔力を吸い取られていた。
何かに憑依したものを他の第三者が引き剥がそうとするならば、相当な魔力を必要とする。そして今のリュウナには、その人間の意識体に対抗するだけの魔力は残されていない。
だが、リュウナは歩みを止めない。
「……確かにわたしの中の魔力はもう残り少ないわ……でも、わたしの中には魔法使いとしての力の他にも、あなたを滅ぼす力があるわ……そしてその力を思い出させてくれたのは、他ならぬあなたよ」
リュウナの背中から、何かが爆ぜる音が聞こえた。
「たとえ、その自分の力に強い封印がされていたって……大好きな人を助ける為だったら、封印の一つぐらい破ってやる!! 奇跡の一つぐらい起こして見せるわ!!!」
リュウナの叫びと共にその背中から、黒き光を放つ焔の翼が舞い広がった。
それは本来自分の姉が死ぬまで羽ばたく事の無い筈の、闇の色をした堕天使の翼……
「この翼に宿る何者をも燃やし尽くす龍の焔よ、時の狭間に巣くう邪なる肉体を焼き尽くせ!! 愛する者に巣くう邪なる亡霊をこの世界から消し去れ!!!」
差し出した両腕から、焔が放たれた。
それは亡霊に取り付かれた花嫁の身体に取り付くと、天高く赤々と燃え上がった。
「ぎゃあぁぁぁぁぁあああ!!!!!」
ティアの体からこの世の者とは思えないような絶叫が発せられた。
リュウナの身体から吐き出された何者をも焼き尽くす力が、次元の狭間に隠れる魔導士の本体を、ティアの身体を支配する魔導士の意識体を全て焼き尽くしていく。
燃え上がる焔は、教会の天井を貫き、赤黒い火の柱を天高く吹き上げた。
全てを焼き尽くす焔。消え行く絶叫。そして徐々に静かになる教会。
全てが収まった時、其処には白いウェディングドレスに身を包んだままのティアが立っていた。白いドレスは何事も無かったかのように、どこにも焼け焦げた後も無く、純真さを表す綺麗な純白を保っていた。
「……リュ……ウ、ナ……」
ティアはそれだけ言うと、力尽きたように前のめりに倒れた。だが、その一瞬だけ聞こえた声は確かにティアの声だった。
「ティア君……良かった……」
ティアの本当の声が聞けて安心したリュウナは、倒れたティアの下へ行きたかった。
でも、使えない筈の龍の焔を強引に発動させたリュウナは、限界以上に体力を消耗していた。彼女もその場に膝を着くと、そのまま倒れてしまった。
「……ティア君……リュウナちゃん……」
まだ電撃のダメージが相当に深く残ったままの副長は、二人が崩れ落ちる姿を見ると自分もそれに続くように意識を失った。
リュウナは夢を見ていた。
それは自分の夢ではなく、別の誰かの夢だった。
その魔法使いの女性は愛機に乗り込み、自分の命を懸けて故郷の土地を守っていた。
一週間にも渡った戦いで、その女性は愛機と共に殆どの敵を倒した筈だった。
だが、敵は最後の足掻きとして、強力な呪導機を繰り出してきた。
その敵機との激しい戦いが続いていた。
戦い続けていたその女性にはもう殆ど魔力が残っていなかった。
魔法使いの女性は最後の手段として、自分自身の肉体を触媒にして敵を完全に屠る事にした。
最後の呪文が発動した。
呪文が力を発揮するにつれ、自分の身体が手足から少しずつ灰になっていった。
でも少しも怖くなかった。
これでやっと、愛するあのひとの所へ行ける。
そう考えたら、少しも死に対しては恐怖を感じなかった。
でも……
女性が後ろを振り返った。
瞳を向けた其処には、故郷の村の中心に立つ、小さな教会があった。
一つだけ残した思い。
大好きなひとと一緒に歩く筈だったバージンロード。
大好きなひとと交わすはずだった誓いの口付け。
徐々に灰になって行く自分の身体を見つめながら、小さく呟いた。
「……せめて亡霊となってでも……あのひとと一緒に……あの教会を……歩きたかった……」
レナスは目を覚ました。
「……?」
目を覚ました其処には自分の顔を覗き込むホビットの少女の顔があった。
「……リュウナ……ちゃん?」
「はいっ」
身を起こしてみる。真っ白で何も無い空間。其処に自分と彼女の二人だけがいる。
「……ここは?」
ホビットの少女に訊いてみた。少女は一瞬躊躇った顔を見せた後、複雑な表情をしながら答えた。
「……ここは、レナスさんの残留思念の中です……」
「あ……そうなんだ」
その一言で全てを理解した様にレナスが答えた。
上を見上げてみる。白い空間が何処からか染み出してきた黒い闇に侵食され始めている。それは自分の残留思念が失われ始めていると言う証拠だった。
レナスが、目の前のどうしていいか解からない顔をした少女の方に、顔を向けた。
「ずいぶんとみんなに迷惑かけちゃった」
泣き笑いのような複雑な表情を見せながらレナスが呟く。
「リュウナちゃんにも、ティア君にも、副長さんにも、三人の妖精達にも、そして故郷の村の花嫁達にも」
リュウナが首を左右に振る。
「だってレナスさんは……レナスさんは……みんなを守るために……」
リュウナが決心したように口を開く。
「レナスさん、今度はわたしの身体に憑依して下さい!」
「え? どうして?」
「だって最後に憑依した身体が男の身体なんて、酷いと思うから……わたしすぐにウェディングドレス着て結婚式やりますから……だから」
必死になって自分の想いを遂げさせようとするこの健気な少女に向かって、レナスが優しく微笑む。
「う、うん、私はもう村の花嫁たちと一緒に、いっぱいドレスを着たからもう充分」
「……でもぉ」
「それにこの最後に憑依した、ティア君の身体から、リュウナちゃん、あなたに対する好きの気持ちをいっぱいに感じれたから、私はもうそれだけで充分よ」
その台詞を聞いてリュウナが顔を真っ赤にする。
「それにウェディングドレスって、女の子が一生に一度だけ着るものって昔からいわれているでしょ? そんなに何度も着ちゃったりしたら、有り難味が薄れちゃうよ?」
レナスがぽんっとリュウナの頭の上に手を置いた。
「私もようやくこの世界とお別れね。これでやっと恋人を探しにいけるわ。絶対探し出して改めて結婚式を挙げるつもりよ……だから、リュウナちゃんもこの地上にいる内に、素敵な人と素敵な恋をしてね」
「……はい」
「それと私の代わりに村の花嫁達に、今までごめんなさいって言っておいてね」
「はいっ」
リュウナの元気な返事を合図にしたかのように、レナスの身体が、徐々に薄れ始めた。
そして完全に消えてしまう直前に、リュウナも意識を失った。
ティアは眼を開けた。
「……良かった……ティア君、目を覚ましてくれて」
自分の頭の上には心配そうに自分の顔を見つめるリュウナの顔があった。
「……リュウナ」
ティアもホビットの少女の無事な顔を見て、素直に安堵した。
「……?」
ティアは唐突に自分の頭の下から、何か柔らかい感触を感じた。
どうやらリュウナが自分の膝を、枕に貸してくれている様だった。
「リュウナ、副長さんは?」
「副長さんならあそこで寝てるよ」
ティアは彼女の視線の先に頭を動かしてみた。
教会に並べられた椅子の上に、副長が横たわっていた。
「本当はティア君も椅子の上で寝かせてあげたかったんだけども、ここで力つきちゃった」
逸早く意識を取り戻したリュウナは、まず副長のことを介抱し、次にティアのことを運ぼうとしたのだが、彼女のいうようにティアの身体を起こそうとした処で力尽きてしまっていた。良く見ればリュウナの格好も、膝枕というよりは、抱き抱える直前といった風である。
しかしこの中で女のリュウナが一番速く目を覚ます事が出来たという事実は、龍の焔を持って生まれた者の身体の強さを物語っている。敵を倒す為ではなく、自分の身を守る為の強さを。
「副長さんは無事なの?」
ティアが心配そうに訊いた。
「うん、大丈夫だと思う、さっきから眼を覚まさないけど、ちゃんと息はしているよ」
副長はその身体に浴びたライトニングボルトの呪文のダメージが相当に大きかったらしく、未だに死んだように眠り続けていた。
「そうか……よかった」
「それとシルフィ達もみんな無事だよ、あそこでみんな疲れたように眠っちゃってるけど」
副長の身体を良く見ると、三個ほどでっぱりが付いている。三人の妖精達がまるで添い寝でもしているように、彼の身体にくっ付いて眠っていた。
リュウナは膝の上の自分が施した薄化粧のままのティアの顔に、再び顔を向けた。
「ティア君ありがとう……わたしのわがままを聞いてくれて……」
本当に申し訳無いと言った顔になる。
「あぁ、俺が花嫁役になったって事?……良いよ、全部終わったんだし……」
「……でも、ティア君は死にかけたんだよ……それに副長さんだって……」
「だから良いっていってるじゃないか、みんなこうして生き残ったんだし」
「……うん」
「そう言えばそのブライドファントムのレナスはどうなったんだ?」
そのブライドファントムに憑依されていたのは自分自身なのだが、その間はずっと身体を支配され意識も封じられていたので、事の顛末については解からずじまいである。
「うん、もうこの世界とはお別れだから、先に行っちゃった恋人を探すっていってたよ……それと村の花嫁たちに今までごめんなさいって……やっぱり、その花嫁さんたちには、ティア君も入ってるのかな?」
「……よしてよ」
心底恥ずかしそうに呟くティア。本人としては、早くこのウェディングドレスを脱ぎたかったのだが、憑依されたダメージが残っているのか身体が上手く動かないので、仕方なくリュウナに膝枕されたままである。
リュウナもレナスからもう一つ大事な事をいわれていたのだが、それはいわずじまいである。
だがその言葉に関係するのかしないのか、微妙な台詞をリュウナが呟いた。一寸考えるような表情をしながら口を開いた。
「……ねえ、ティア君」
「ん? なに、リュウナ?」
「……わたしで良かったら……そのぉ……口直し、しよっか……?」
リュウナが顔を真っ赤にしながら呟いた。
「はい? くちなおし??」
ティアが全然意味が解からないとでもいうように聞き返す。
「……その、だって、ティア君と副長さん……男の人同士でキスしちゃったから……その……」
リュウナが頬を真っ赤に染めながら続ける。
ティアもそこまで来て、リュウナが何をいっているのかようやく理解した。ティアも一気に顔が真っ赤になる。
「い、い、い、い、いいよぉっ、別に……そ、そ、そ、その、俺達は、その、男同士だから気持ち悪いとかもあんまり無かったし……それに俺だけじゃ副長さんに申し訳無いだろぉ!?」
ティアが凄まじいばかりに取り乱している。
「……副長さんにも後でちゃんと聞くよ?」
「……いや、そうじゃなくて……」
そう恥ずかしながら真っ赤にしたティアの顔に向かって、同じように顔を真っ赤にしたリュウナが顔を近づけてきた。だが自分の膝の上にティアの頭を乗っけているので、幾ら身体を曲げても寸での所で届かない。
「……」
「……いいの?」
「……」
リュウナは答えなかった。
暫しの沈黙。
ティアの瞳が何かを決心したような光を帯びた。
「ちょっと肩を貸して」
リュウナの肩に手を添えると、彼女の肩を支えにしてまだ上手く動かない身体を起こした。
上体を起こしてもティアは肩から手を離さなかった。更に両手を添えて、リュウナと向き合う。その先には、頬を朱に染めた少女の顔がある。
リュウナは瞳を閉じて、相手の答えを待った。
ティアが少しだけ身体を前に動かした。重なり逢う唇と唇。
お互い一線を超えられなかった者同士が、今日始めて「好き」の気持ちを身体で表した。
……もう、ティア君がぐずぐずしてるからわたしのファーストキス、おねえちゃんにあげちゃったよ……
リュウナはティアに唇を重ねられている間、そう心に想っていた。
「……」
しばらくして、ティアが顔を離した。再び瞳を開くと、何時もと変わらない少女の笑顔があった。そしてその朱に染まった笑顔は、いつもの何倍も可愛い笑顔に見えた。
リュウナの笑顔を見た時、ティアの身体が、ぐらっと揺れた。
「てぃ、ティア君!?」
「ご、ごめんリュウナ……まだちょっと、力が入らないみたい……」
また再び、ティアはリュウナの膝の上に落ちた。本当に力が入らないらしく今度はうつ伏せのままだ。
「うん……副長さんもまだ起きれないと思うから、まだそこで寝てていいよ」
リュウナも照れくさそうにいう。自分の太腿に直接押し当てられたティアの頬の温かさを感じて、なんだか恥ずかしかった。
「……」
ふと天井を見上げてみる。
なんだかレナスの「がんばれ」と言う声が聞こえたような気がした。